シンプルに無駄を削ぎ落した美しさを妥協せずに追い求めたい

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美しいものが好きだ。美しさというのは一種の価値観で、言うまでもなく人によって変わってくるし、とうぜん時代によっても違う。ある人にとって美しいものが他の人にとってはそうではないということは多々起こる。平安時代の美人と現代の美人が違うのは言うまでもない。昭和のイケメンと平成のイケメンも違ってくるだろう。そして同じものを見たとしても人によって美しく感じる部分が違ってくる。同じ人を見ても目を美しいを感じる人もいれば、全体のバランスを美しいと感じる人もいる。

わたしにとっての美しさの基準は「整っているかどうか」ということろにある。先日、職場の棚卸しがあったのだが、在庫品の分類するためにテープを貼っていた。量が膨大だったのでほとんどの人が「とりあえず貼っておけばいい」という感じで乱雑にテープを貼り付けていた。わたしはそういう状態を気持ち悪く感じる。貼ってあればいいという発想ではなく、どうせやるならきれいに貼りたい。いつも言っているが、どっちが正しいということではなく、わたしはそうだというだけの話。

そんなわたしは神経質かというと実はかなり大雑把な性格だ。もちろん几帳面ですらない。何だろうこの矛盾した感じは。整っていない状態を許せないのに大雑把なのだ。

整っているのが好きなのは機械設計者だからだろう。きれいな図面を見ていると気持ちが落ち着く。手を抜いてい書かれた雑な図面を見ると落ち着かなくなる。複雑な図面でも美しい図面は書かれていることを読み取るのがとても簡単だ。そして美しい図面はシンプルだ。不必要な情報を極限までそぎ落としてなにひとつ無駄のない図面は本当に美しい。設計して出来上がったものも無駄のないデザインはとにかく美しい。そういうものを作れたとき、小さくガッツポーズしたくなる。もっとも誰にもその美しさを理解してもらえないのだが。

人の美しさというのは難しい。

見た目の美しさが人としての美しさと必ずしもリンクしない。ただ、心の美しさは間違えなく外見に出てくる。所作の美しさというのはわかりやすい。美しい所作は長い時間をかけて身につくもので、その場しのぎでできるようなものではない。それゆえに所作も心のあり方が出やすい。ただ立っているだけでハッとするような美しい姿を見せる人もいる。わたしもそういう美しさを手にしたいが、まだまだ時間がかかりそうだ。

シンプルに無駄を削ぎ落した美しさ。もしかしたらわたしが目指しているのはそのなのかもしれない。モノを手放す生活も、図面を描く仕事も、シューズを履かないランニングも全部そこにつながる。自分の理想とする美しさを追求してどこかにたどり着こうとしていると感じることがある。その先に何があるかはわからないし、そもそもたどり着けるのかすらわからない。幻を追っているだけという可能性すらある。

それでもわたしは美しさを追い求めたい。何があろうともそれだけは妥協したくない。美しさに対しては頑固なまでにこだわっていくつもりだ。大雑把な性格は変わりそうにないので、アンバランスな美しさにだけはならないようにだけは気をつけるとしよう。

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