羽生選手と閻涵選手のアクシデントに対するコメントに思うこと

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昨夜のフィギュアスケートグランプリシリーズについて、いたるところで賛否のコメントが見られる。羽生選手が練習時間に中国の閻涵(エンカン)選手と激突し、頭部やあごを負傷した。それでも満身創痍で強行出場を果たしたわけだが、これについて止めるべきだったという意見と、見事だたっという意見が入り混じっている。そのどちらの声にもわたしは違和感を覚えた。ほとんどのコメントが彼の行為に対するものであり、自分ならどうするかという声はほとんど聞こえてこない。

マスコミが美談にするのは仕方はない。彼らにそれ以上のことを求めることは出来ないのだから。マスコミは慈善事業で記事を書いているわけではない。彼らは自分たちの新聞や雑誌が売れなければ食っていけないし、視聴率が高くなければ番組を存続できない。儲け主義に走った日本のマスコミに「報道」する能力なんてないことは明らかだ。美談にする以外の道を見いだせないのがマスコミで、それ以上を求めるのは時間の無駄だ。

わたしが違和感を覚えたのは現役のスポーツ選手や、元アスリートのコメントだ。基本的には止めるべきだったという意見が多いように感じる。そういう人たちに聞いてみたい。それじゃああなたは同じ状況になって止めることができるのか。現役時代に止めることができたのか。おそらくほとんどの人は言葉を濁すだろう。イチローならきっとこう言うだろう「難しいが、その状況になってみなければわからない」。

最悪なのは周りの人が止めるべきだったなどという人たちだ。羽生選手を責めるのは分が悪いと感じたのか、周りの人たちの批判をする。アスリートの意志を止めることなんてできないことを知っているのに。きっとあの状況では親であっても彼を止めることなんてできない。それをわかっているアスリートたちがこぞって周りの人を批判する。

わたしが聞きたいのはそんな正論じゃない。自分ならどうしたか、そういう言葉を聞きたいのだ。アスリートなら自分の言葉で自分の行動を語ってほしい。まず羽生選手のとった行動を尊重し、自分ならこうすると言うべきだろう。「周りの人が止めるべきだった」というのと「自分ならこうする」ということは同じではないかと思うかもしれないが、まったく違う。前者の言葉には責任がなく、後者の言葉には責任がある。わたしならこうしたという言葉は後々の自分の行動を縛ることになるのだ。

まわりからの、ああすればよかたこうすればよかったなどという無責任な言葉は不快以外のなにものでもないことは、先月の北京マラソン後の報道で嫌というほど感じたことだ。

最悪の場合、競技を続けたことで死ぬこともあった事故ではある。批判を恐れずにわたしの意見を述べるなら、そこで死ぬならそれが彼の人生だったと言うだけのことだ。勘違いしてはいけない。わたしたちは永遠の命が与えられているわけではない。100歳近くまで生きる人もいれば、母親の胎内で閉じる命もある。今日まで元気だった人も明日いなくなるかもしれない。だからわたしたちはいつでも死ねる準備をしておかなければいけない。いつ死んでもいいように毎日を悔いなく生きなければいけない。

グランプリシリーズごときで無理をする必要もないという意見はもっともだろう。でも毎日を悔いなく生きようとしている人にとって、きっと羽生選手にとっても、ものごとの大小は関係ない。人生において目の前のことに全力を尽くせるかどうかだけが大事なのだ。

全力で遊び、全力で働き、全力で恋する。

何歳になってもそういう生き方をし続けたい。賢いふりした、責任のない言葉を発するような大人になんてなるつもりはない。「stay hungry stay foolish」を心に刻みながら今日を生きたい。きっとわたしも羽生選手と同じ立場なら同じことをするだろう。それで尽きる命を惜しいとはこれっぽっちも思わない。

(たぶん大きく誤解されるのだろうと思いながら、否定批判が多々あるだろうことを承知で、どうしても伝えたいことがあったのでこの記事を書いてみた)

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