あの日あったことをありのまま覚えていたい

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3月11日にまずやること。とても大切な人に「誕生日おめでとう」のメールをすること。記念日とかまったく覚えないわたしが唯一覚えている誕生日(いまでは毎日PCが誰かの誕生日を教えてくれるが)。あの日も、朝に誕生日メールを送り、まさかその数時間後に安否確認のメールをするとは思いもしなかった。あの日、わたしは会社の慰安会で横浜にいた。

横浜の万葉の湯でフットマッサージを受けている時だった。片足のマッサージが終わるか終わらないかというタイミングで建物が揺れ始めた。ちょっとした地震かと思ったのだが、なかなか揺れが止まらず、怖がるマッサージ師の中国人の女の子に「大丈夫、大丈夫」と声をかけて落ち着かせていた。

揺れがおさまり、建物から避難をする指示が出たのだが、わたしは自分の判断でギリギリまで建屋に残っていた。これはいまでも正しかったのか間違っていたのか悩むことがある。こういうときは指示に従うべきなのは頭ではわかっている。それでもわたしの性格からして周りの人が退避したのを確認しなければ自分の避難はできない。

そこから横浜駅に向かったのだが、みなとみらいの路面はヒビ割れが起こり、電車はすでに止まっていた。ちょっとやそっとでは動かないと判断したわたしは、走って帰るという選択をした。まずは腹ごしらえと横浜駅近くのすき家で揺れながら牛丼を食べる。あの状況で店が開いていたのは驚きだが、その時点ではまだ街が機能していた。

わたしが走って帰ることを選んだのは、鎌倉で暮らす姉が妊婦だったからだ。愛媛で暮らす母経由で姉と妹の安否確認をしようとしたのだが、なかなか連絡がつかない。鎌倉に向かう途中で妹の安全は確認でき、残るは姉のみ。結果的には姉の安全も向かう途中で確認できたのだが、やはり顔を見なければ安心はできない。

鎌倉へ向かう途中、車が道路を埋め尽くし、駅には人が溢れかえっていた。数人、走って家へ帰ろうとしている人に出会った。こういうときランナーは強い。この時ほどランナーでよかったと思ったことはない。お互いに声を掛け合いながら、それぞれの無事を願いながら帰路を急いだ。

鎌倉の街は暗闇の中にあった。日が沈んだのもあるが、街に灯りがない。停電していたのだ。灯りがない世界があんなにも暗いものだとは思いもしなかった。渋滞で動いていない車のヘッドライトが唯一の道標。停電しているのだがコンビニは店を開けている。どう精算しているかはわからないが、そんなことはどうでもよかったのだろう。

鎌倉の姉の家についてすぐに停電は復旧し、そこで見たテレビの映像をわたしは永遠に忘れない。

きっと録画だったのだろうが、東北の沿岸を襲う津波。そのとき始めてこの地震の本当の恐ろしさに気づいた。あれから4年経ったいまでも復興は終えていない。終えていないが、わたしたちの意識から徐々にあの日の記憶が消えていきそうになる。だからせめてこの日だけは思い出したい。あの日自分が何をしていたのかを。

忘れてはいけない。風化させてもいけないし、美化してもいけない。あの日あったことをありのまま覚えていたい。自己満足にすぎないが、それでいい。

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