自分自身のあるべき姿を曲げてまで生きることに何の意味があるというのか

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小さなころ、何になりたかったか覚えているだろうか?わたしは覚えていない。いや、きっと何かになりたいなんて考えたこともなかった気がする。消防士や警察官にも憧れなかったし、ヒーローになりかたかったこともない。ただ、学生になってからなりたかったものは明確に覚えている。

わたしが学生時代になりたかったのはサッカー選手とパン屋さん。サッカーについてはここで何度か書いてきたけど、ずっとプロサッカー選手になれると信じていた。南米のチームのプロテストまで受けた。才能はゼロと言っていい。ほとんど試合にも出たことがないレベル。でもなれると信じていたしそこを目指していた。

パン屋というのはそういう生き方と言い換えてもいい。自分で何かを作り、それをお客さんに買ってもらい喜んでもらう。いまはエンジニアをしているが、「あなたはサービス業のほうが向いている」と何度言われたかわからない。実際のところ設計の仕事を天職と思いながら、人と向き合える万里の長城マラソンの仕事がたまらなく好きだ。

人のために何かをすることが好きだと言っていい。ただ難しいところが、その相手が誰でもいいというわけではない。この人のためなら何でもしようと思う人もいれば、関わるのも嫌だという人も少なくない。そういう意味ではサービス業は向いていないかもしれないが、別にすべての人に愛される必要はないと割り切った気持ちもある。

さて、今の自分はどうだろうか。夢はある。かなり壮大で先が見えない夢だが、それは追い求め続けよう。いまどういう生き方をしたいかと問われると、少し悩んでいる。私は普段あまり悩まない方なのだが、この先どう生きていくかを真剣に考え悩んでいる。40歳を目前にして夢をかなえるためにはこのままではいけないという思いが高まっている。

人生はたった一度しかない。

わたしたちの残された時間には限りがある。そして、その時間はたったいま終わりを告げる可能性だってある。今日かもしれないし、明日かもしれない。数十年後?こればっかりは誰にもわからない。だからいま、後悔をしない生き方をしなければと心がけてはいる。そして明日路頭に迷おうとも、志を捨ててはいけない。

自分自身のあるべき姿を曲げてまで生きることに何の意味があるというのか。

ならばどうするか。やはり自由に生きなければいけない。自由に生きるべきだろう。幸運なことにわたしはいま、自由を選べる立場にある。もちろん、自由の先にあるのは厳しくつらい道なのだろう。それでも自分が選んだ道ならいいではないか。失敗やうまくいかないことも責任をすべて自分で負えばいい。

見えない未来に怯えるのはもうやめにしよう。見えているいまを全力で生きるのだ。

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