先に旅立った人といつでも共に生きているということを忘れないこと

Tatry 598293 1280

わたしは直接の面識はないのだが、わたしのラン仲間がつながっている人が南アルプスの鋸岳で亡くなられたそうだ。毎年のように多くの人に慕われているトレイルランナーが山で事故に遭っているような気がする。

山は本当に危険だ。日本アルプスのような山に行ったことはないのだが、丹沢でも箱根でも危険を感じることが多々ある。野生動物との遭遇もあるし、どれだけ経験を積んでいても事故に遭う可能性は下げられてもゼロにはならない。

じゃあトレイルを走るのをやめるかと問われると、わたしのようなトレイルランナーでもないただの山好きであっても即答でNOと言うだろう。少なくともわたしはその危険も含めて山が好きなのだ。

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山で命を落とす危険から逃れるために山に行かないという選択肢はない。町中の道を歩いていたってどこかから車が突っ込んできて命を落とすことだってある。いや人間の命という意味では、明日の朝目を覚まさないまま生涯を閉じる可能性もある。

あたり前のことだが、命には限りがある。あと何十年も生きられるかもしれないし、数秒後に突然心臓が止まることだってある。

この大前提について学校では教えてくれないし、家庭でも教えてくれない。何気なく生きていると、自分の生活は一生のこのまま続くのだと勘違いするし、死ははるか遠いところにあるものだと感じてしまう。

ところが死はいつだってわたしたちのすぐそばにいる。忘れちゃいけない。

だから毎日を全力で生きる。いまできる最高の結果を追い求める。嫌なことやストレスになるようなことは何ひとつしたくない。誰かに迎合することも嫌だし、いつだって自分で考えて行動をしたい。

そうやって、死がいつわたしを迎えに来ても「じゃあ行きますか」と言える自分でありたい。

人が死ぬということはもう存在しないことで、二度と会うことはできない。でもそれは物理的に存在しないということで、たとえばわたしの父はわたしの中で生き続けている。おそらく母の中でも姉や妹の中でも父は生き続けている。

父の中には祖父や祖母が生きていたから、わたしの中には父だけじゃなく祖父も祖母も生きていることになる。人が生きるというのはそういうことだ。

自分の中で生きているから会おうと思えばいつでも会える。ただ、時間とともにその必要性もなくなってくる。大切な人を失って、時間とともにその人のことを思い出さなくなるのはその人のことを忘れてしまったからではない。

大切な人が自分の中で同化しているから思い出す必要もなく、共に生きることができているのだ。

まず毎日を、この瞬間を悔いなく生き切ること。そして、先に旅立った人といつでも共に生きているといことを忘れないこと。いま自分が悪事を働くと大切な人にも悪事を働かせることになる。

ちいさなズルや、手を抜きたくなる衝動。大切な人にそれらを背負わせるわけにはいかない。

約束は絶対に守る。友を裏切らない。そうやってわたしはまっすぐに生きる。愚直なまでにまっすぐに生きる。それが命をつないでくれた人に対するわたしなりの答えだ。

鋸岳で亡くなった彼はきっとこれから多くのランナーたちの心の中で生きていくだろう。回りまわって知らないうちにわたしの中でも生きてくれるだろうか。そのとき彼がすっと入ってこれる自分でありたい。

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