精神的向上心こそが人の魅力になるのではないだろうか

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おいらよりも少し年下だけど30代で大学に入りなおして自分の夢を追いかけている仲間がいる。ちょっと遠くの大学なのでなかなか会えないけど、いまはまだ夏休みということで、伊豆の仲間の家で久しぶりの再会してきました。彼女は大学に入り直す前に海外青年協力隊でアフリカのマラウイで働いていた。その彼女と海外青年協力隊として同じくマラウイで働いていた人が、伊豆の友人との知り合いだということが発覚し、その人の家族も集合。その人の嫁さんが以前働いていた大阪の病院に同じタイミングで伊豆の友人が入院していたことも発覚。世界の人口は100人ぐらいしかいないんじゃないだろうかともうほどの繋がりに、魅力のある人たちは惹きつけ合うんだなと思わずにはいられない。

世の中には人を惹きつける人というのが間違いなくいる。その多くが前向きに人生を楽しんでいる人たちだ。ネガティブ思考では人を惹きつけられないのは言うまでもない。かと言ってポジティブなだけでは人としての魅力がどこか不足しているように感じる。今のままではいけないという危機感と、その状況を変えようとする行動力が大切なのかもしれない。

「精神的向上心のないものは馬鹿だ」と書いたのは夏目漱石だっただろうか。

精神的向上心のないものが馬鹿だったとしてそれがどうしたという思いもあるのだけれども、人としての魅力のひとつとして、この精神的な向上心がどれだけあるのかが重要になっているのではないかと思う。少なくともおいらの感覚としては。昨日の自分よりも今日の自分のほうが優れていると言い切れる生き方をしているかどうか。そういう生き方をしている人の口から出てくる言葉は純粋に面白い。

ただし、この「精神的な向上心」の定義が難しい。例えば昇進したいという思いは、精神的な向上心ではない。有名になりたいとか、お金持ちになりたいというのも精神的な向上心ではない。マラソンでサブ3を達成したいというのも精神的向上心とはいえない。一度も歩かずにフルマラソンを完走するというのは精神的向上心につながるものがある。精神的向上心というものは結果ではなく、プロセスを大切にするのかも知れない。

いまの日本はプロセスよりも結果を重視する社会になっている。欧米型の社会が経過よりも結果を重視し、日本はその社会に追いつこうとしたために結果主義に傾いてしまったのかもしれない。結果を出したものが偉いと勘違いしているから、社会的な立場が上であるというだけで偉そうな態度をとる人が絶えないのだ。それはまあどうでもいい。このまま日本が結果主義にどっぷりハマってもかまわない。

そうなったとしても、おいらはプロセスを大切にしたい。何かをしようと思ったきっかけを大切にしたい。おいらたちの命はかぎりがあるのだから、地位や名誉なんて命が尽きてしまえば無に変わるわけです。それよりも、いま自分のやりたいことをやっていることのほうがよっぽど価値があると思うのです。自分が納得できる生き方をせずに人生が輝くはずがないのです。自分の好きなことをして、輝いている人だけが人を惹きつけるのではないでしょうか。

もっとも自分が好きなことは必ずしも楽な道ではありません。むしろ険しい道の場合がほとんどでしょう。おいらは走るのが好きだけど、走ることはそのほとんどが苦しみです。30代で学生に戻るということは、その歳で新しい知識を頭に詰め込まなくてはならないということです。これは想像以上に難しいことです。でも、困難な道の先に自分の夢があると信じて疑わない心が、精神的向上心につながるのです。

もし夢が叶わなかったり、夢とは違う道を歩むことになっても、その人の魅力が下がることは決してありません。人間の魅力は成果や結果とは違うとことにあるのですから。

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