水を運ぶ人

上白石萌音さんの好きな曲「ストリートボード」の歌い出しに「僕は主人公じゃなくて 2番手の脇役でもない」とあります。ここがたまらなく好きというか、いきなりグッと心の奥の深いところを掴まれた気分になります。

さすがにわたしも、40年以上も生きていれば自分が主人公でないことくらい分かります。せめて脇役くらいはと思うものの、脇役どころかその他大勢に埋もれています。

埋もれているという表現は、正しくないですね。そこが自分の居場所です。

裸足ランニングやランニングシューズのレビューワーとしては、そこそこ知られるようになってきましたが、それはとても小さな村の中で、知っていてくれる人がいるくらいの話で、隣の村に行くとわたしのことを知っている人はいません。

手広くいろいろやっていると、それくらいのことは分かるようになります。

どこの村に行っても、それなりに知られる存在にはなれます。自分自身に対して、それくらいの評価はしています。でも、わたしが全国で知られる存在になることは、これからの人生で訪れることはありません。

知られるために何か行動をするつもりもありませんし、そういう欲もないのですが、何よりも器がそういう形をしていません。

30代の後半くらいまでは、それでもまだ自分が何者かであるかもしれないという期待がありました。その他大勢ではない何かを持っている人。もしかしたら、その当時は何かを持っていたのかもしれませんが。

若い頃は、村でチヤホヤされていることに舞い上がって、客観的に自分の実力を測ることができませんでした。だからこそ、様々なことにチャレンジしてきたわけですが、それは若さの特権のようなものです。

じゃあ40歳になって、自分はどんな役割を果たすべきなのか。ひとつは、こうやって言葉を並べることでしょう。文章を書く才能があるのかどうかは分かりませんが、仕事になるレベルにはあります。

文章を書くというのは舞台裏の仕事です。有名な作家さんになれば話は別ですが、誰もが知る作家さんもやっているのは、誰かの人生を言葉で支えたり、背中を押したり、優しく包み込んだりしているだけのこと。

物書きは主人公でも脇役でもありません。誰も見えないところで、水を運んでいるだけ。

でも、それでいいんじゃないかと思い始めている自分がいます。これまでのわたしは、多くの人が集まったときに「自分が自分が」となることがよくありました。「自分の話を聞いてもらいたい」という欲。

気持ちのどこかで、自分の知識をひけらかしたいという思いがあったのかもしれません。でもそんなことは誰も望んでいないわけで、本当に大事なのは、そこにいる人たちみんなが楽しかったと思えること。

それは、表舞台に立たない人間の役割かなと。

これまでも気づいてはいたんですが、やはり自分が何者かでありたいという気持ちを捨てきれずにいました。おそらくこれからも、それはしばらく続くのでしょう。40年近くもそうやって生きてきたものを、明日から急に変えることはできません。

もしかしたら、死ぬまで捨てきることはできないかもしれません。でも、そうあるべきではないということには気づきました。わたしがホームランを打つ必要はなく、わたしは繋げばいいだけ。

なんだったら繋ぐ必要もないのかもしれません。バットやスパイクを使いやすい状態に整える。そこでプロフェッショナルな仕事をすればいい。誰かの評価を待つのではなく、自分が納得できる仕事をする。

水を運ぶ人になる。

誰かに喜んでもらうことが好き。自分のしたことで誰かが笑顔になることが、自分を笑顔にする。そういうのはずっと前から気づいていたことです。ただ、心のどこかで水を欲する人になりたいと思っている自分がいて、ダブルスタンダードになっていました。

ここ数ヶ月でいろいろな環境や心境の変化があり、そういう自分を客観的に見えるようになってきました。でもまだスタートラインに立ったばかり。大事なのはこれから、自分を変えていけるかどうかということ。

まぁ気楽にいくとします。最初は何度も水をこぼすかと思います。ちょっと自分で飲んでしまうこともあるかもしれません。それも含めての経験です。やるべきことは決まったわけですから、あとはひとつひとつ丁寧に積み重ねるだけ。

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