未来を信じる【立ち止まって過去を懐かしむのではなく】

世の中の話題は新型コロナウイルスで埋め尽くされている感があり、スポーツイベントも開催されていないので、過去のできごとを振り返る記事が増えてきました。古きに学ぶいい機会かもしれませんが、これが続くと「あの頃は良かった」なんて論調になっていきます。

過去がどんなにステキでも時間は前にしかすすみませんし、そもそも過去のできごとの多くは美化されています。それを上手に文章にするライターがいるので、過去はどうしたってキラキラしたものになります。でも現実の過去はそうでもなかったはずです。

インターネットがない時代には、いまのように人と人とが簡単につながることはできませんでした。自分の世界はもっと窮屈で、視野も狭かったはずです。30年前、世界では「知っている」ことがお金になりました。それだけ個人の持つ情報量が少なかったわけです。

もちろんいいことだってありました。知らぬが仏と言いますが、知らないこと見えてないことが多いから、余計なことを心配しなくて済みました。例えば、30年前に新型コロナウイルスが発生していたら、もっと統制がとれていて、収束も早かったかもしれません。

ただ30年前の日本はもっと汚れていて、社会においても黒い部分が多くあったわけです。それが特別ではなく、あたり前のものとして存在していた時代。いじめもありましたし、貧しい家庭もまだまだ多く残っていた時代。

それを乗り越えてきたから過去を美しく思うのかもしれません。仮に本当に過去が美しかったとしても、未来がそれよりも劣るとは限りません。むしろ、未来のほうが明るいのではないかと思うことも多々あります。

この国ではそれを希望と呼びます。

「この国には希望だけがない」と作家の村上龍さんが「希望の国のエクソダス」で書きました。好きな小説のひとつなので、気になる人は図書館で借りて……図書館は開いてないですね。Kindleなら580円で買えるので、家でのくつろぎの時間にどうぞ。

それはともかく、実際に少し前までの日本は希望のない国でした。バブル崩壊からの閉塞感から抜け出せず、そして周りの国の経済発展から置いていかれてしまい、現在では世界的にも低賃金の国になっています。

この国に活気をもたらしたのは、中国人を始めとする外国人観光客でした。日本は成長ではなく停滞を選び、その停滞を嘆くのではなく停滞を武器に希望を再構築していきました。きっとそれは世界的にも例を見ない変化だったのだと思います。

その最終形態を見る前に新型コロナウイルスが発生したので、この国はまた希望を失ってしまいました。ただ、希望がない状態に慣れているので、他の国よりも絶望感や危機感がそれほど大きくなりません。日本人は受け入れることが得意なのでしょう。

人間というのは変化を望まない生き物です。大きな変化に対応するのには勇気がいります。だから現状維持を望むわけですが、それぞれが思っている以上に日本人には柔軟性があります。変化に対して慌てることなく順応していきます(自主性がないとも言いますが)。

わたしは別に「日本人すごい」なんてことを言いたいのではありません。ただ、もう少し自分たちを信じていいのかもしれません。自分自身もそうですし、周りの人たちもそうです。信じることで、きっとこの状況も乗り越えていけるはずです。

いま多くの人が外出自粛要請に応じないのは「自分だけガマンするのは損」みたいな思いがあるのも理由のひとつとして考えられます。「他の人は走っているのに自分が走らないのは損」「他の人は花見しているのに自分が部屋に閉じこもるのは損」そんな感情から「自分も動こう」となる。

これを「仲間も耐えているから、自分も耐えよう」とできるかどうか。

言葉にするのは簡単ですし、きれいごとでしかないのはわかっています。でも、希望は信じることの先にしかありません。立ち止まって過去を懐かしむのではなく、未来を信じて自分にできることを積み重ねませんか。きっとその姿が誰かにとっての希望の光になります。

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