働けども落ち着かず

働けども落ち着かず

ライティングの仕事が落ち着いたので、またUberEatsの配達に戻っている。前回の配達からは10日くらいの空白があり、その期間中にいろいろと状況が変わっていた。街に出ている配達員はそれほど多くないのだが、注文数が圧倒的に少ない感じがある。

原宿・表参道をベースに配達をしていたのだが、配達距離もかなり短く1回の単価も安い(1配達500円程度)。配達先で鳴らないからまた原宿・表参道に戻ってくる。15回の配達に約7時間だから、そう悪くはないのだが単価が安いので稼ぎは悪い。すでにほとんどの人が普通に外に出て買い物できるのだから、わざわざデリバリーを頼む理由がない。

自粛期間や夏場は、外に出るのを躊躇してUberEatsを使っていた人も、秋になり、涼しさを感じるようになれば自分で買いに行かない理由がない。日本人は意外と働き者で、楽することをよしとしないのかもしれない。「誰かに何かをお願いするのが、あまり得意ではない」という方が表現としては正しいだろか。

お金を払っているのだから気にする必要はないのだが、何人かの知人から「なんか悪い気がしてUberEatsは使えない」という声を聞いた。自分でできることをお金を払ってでも他の人にお願いするのは、日本人の嗜好に合わないのだろう。もちろん、すべての人がそうというわけではないが。

もっとも悲観的にはなっていない。新型コロナウイルスが広がる前に戻っただけ。わたしがUberEatsを始めた頃の単価もこれくらいだった。当時よりは上手く立ち回っているので、全体的な忙しさは落ちているのかもしれないが、あの頃と同じように8時間労働をすれば、1日1万円の稼ぎにはなる。

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母の実家は農家で、叔父と従兄弟がそれを継いでいる。従兄弟はわたしよりもかなり若いのだが、休みなく働くことを当然だと考えている。農家は常に何かしらやることがあり、生きることが働くことであり、働くことが生きることなのだ。わたしが休みなく働くのもそんなDNAを継いでいるからかもしれない。

楽することに慣れることができない。わたしの場合は、事業のために借りたお金を返すために稼がなくてはいけないという切実な問題もあるが、1日好きなように使ってもいいとしても、きっと文章を書いているのだろう。稼ぐためだけに働いているのではなく、毎日を充実させるために働いている。

フリーランスになってから、仕事をしているという感覚が随分と薄れてきた。ウーバーイーツの配達をしている時でさえ、働いているというよりは自分のやるべきことに打ち込んでいる感覚がある。楽しいかどうかで聞かれると悩ましいのだが、少なくとも嫌だと思うことはない。物書きの仕事も含めて。

今みたいに突然胸が締め付けられるような気分になりやすいときは、没頭できる仕事があるのはありがたい。会社員だったら、まったく仕事にならなかっただろう。少なくとも父のときは、しばらくは使い物にならない自分がいた。昨日も配達を始めるまではそんな感じがあったが、自転車を漕いで心拍数をあげたら気持ちが落ち着いた(仕事が終わったら沈んだが)。

実は昨日に仕事をするかどうかで迷っていた。1度気持ちを落ち着けるために、家でゆっくりとしたほうがいいのではないかと思った。だが楽な方を選んだら回復が遅れるような気がして、リハビリのつもりで配達に出た。いろいろ考える余裕のないくらい働いて、ゆっくりと本来の自分へと落ち着いていければいいかなと。

この落としどころは、きっと元から居た場所からは少しズレているのだろう。まだどこに着地するのかは自分でもわからない。今回の経験が自分をどう変えるのか。楽しみながら自分で自分をじっくり観察するとしよう。弱ったときに自分は何を考え、どう行動するのか。

正直いまはどこで何をしていても居心地が悪い。突然集中力が切れて、自分はいま何をしているのだろうと不安になる瞬間もある。だが、それも経験。みんなが乗り越えていくもの。時間が解決してくれるのか、それとも自分で上手く消化するのか。心の移り変わりをしっかりと記録していくとしよう。

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