一歩を踏みだそう!『感動をありがとう』で終わらせてはいけない

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『絶対に負けられない戦い』と同じくらい嫌いな言葉が『感動をありがとう』だ。『絶対に負けられない戦い』に負けたら一体どうなってしまうんだろう。『絶対に負けられない戦い』に負けて誰かが責任をとったという話を聞いたことがないが、わたしの知らないところで責任をとっている人がいるのだろうか。今回はザッケローニ監督が辞任という形で責任をとったことになっているが、日本サッカー協会のトップが辞任しないのはトップがだらしないのか、決勝トーナメントに上がれなかったことは責任を取るほど大事ではなかったということなのだろう。

『絶対に負けられない戦い』についてはこれぐらいにしておくとして、問題は『感動をありがとう』だ。今回目に付くのはさらにレベルアップしてて『夢と感動をありがとう』みたいなことになっている。勘違いしないで欲しいのだけれども、わたしは別に感動すること、感動を与えることが悪いこととは思わないし、夢を与えることも、夢を見ることも悪いことではないと思っている。

そうではなく、『感動をありがとう』というフレーズは感動を与えてもらったところで完結しているように感じることにある。感動というのは感銘を受けて強く心を動かされることだ。心が動いたなら行動するのが人間だろう。『感動をありがとう』という人の多くは、その感動によって満足しているだけだ。全員とは言わない。でも行動に移している人たちは『感動をありがとう』なんて言葉を口にはしない。少なくともそういう人は「感動した。自分も頑張る」となる。

この微妙なニュアンスはきっと『感動をありがとう』という人たちには伝わらないのだろう。そして感動を与えてくれた人に感謝して何が悪いと言うだろう。何も悪くないが、感動を与える側は意図的に感動を与えているのではない。感動を与えるというのは結果として発生したものでしかなく、与えた側は全力を尽くして何かを成し遂げた、もしくは成し遂げようとしただけだ。感動を与えたことで感謝される覚えはないはずだ。

もし『感動をありがとう』が成立するとするならこうだ。

「日本代表がW杯で最後まで戦う姿を見て感動した。わたしも最後まで諦めずに夢を追うことにした。その結果夢をかなえることが出来た。ありがとう」

そうなたっときに初めて感動を与えた側の行為が報われる。いや、実際に夢がかなわなくてもいい。「夢はかなわなかったが、自分にできることをやりきれた。ありがとう」でもかまわない。「感動した」だけで完結したら、何も繋がらない。何も発生しない。心が動いたのならまずは一歩踏みだしてほしい。

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何かを感じた人が行動に移す。その積み重ねが日本全体を押し上げる。一人ひとりの一歩は小さくても。1億人分の一歩はとてつもなく大きい。その一歩がサッカー日本代表のレベルアップにつながる。その一歩が日本経済の活性化につながる。その一歩が周りの人たちの幸せにつながる。『感動をありがとう』で完結しないでほしい。逆の気持ちの人も同じだ。サッカー日本代表を非難する人たちも非難だけで終わらせないで欲しい。日本代表を日本サッカー協会を反面教師としてもいいから一歩踏みだそう。

その一歩がほかの誰かに感動を与えるかもしれない。そして感動を与えられた人がさらに一歩を進む。日本中が連鎖していく。そういう国をわたしは夢想する。もちろん夢見るだけではなくわたしも一歩を踏み出す。この一歩が誰かの一歩につながると信じて。

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