暴力はいけないことだけど、それが感情表現のひとつになっている人たちもいる

どうしても世の中から暴力はなくなりません。人間に力があり、それに対する恐怖心が本能的にある以上、この世の中から暴力がなくなることはありません。日本ハムの中田翔選手がチームメイトに暴力をふるったということで出場停止処分になりましたが、こういうことが起きるたびに思うのは暴力に頼るしかない人もいるのだということです。

暴力というのは人を従わせるのにとても便利なものです。恐怖心を植え付けたら、簡単にコントロール下に置けます。だから私たちの時代は暴力教師なんていうものが存在しました。私が通っていた中学校には竹刀を持った先生もいましたが、30年前はそれが許されていた時代だったわけです。

当たり前のように校内には暴力がありました。いわゆる不良グループというものがあり、力で学校を支配するみたいなところもありました。おそらく私と同じ世代の人たちは、多かれ少なかれそういう体験をしてきたはずです。実際に暴力を受けたという人もいるのでしょう。

私も暴力を認めるつもりはありませんが、暴力というのはひとつの表現方法なんだろうなと考えています。私がこうやって文字を並べているのと同じで、暴力をふるう人にとっては誰かを殴ったり蹴ったりするのは、自分の感情表現のひとつでしかないということ。悲しいときに泣くのと同じように。

腹が立つから殴る。それがいいことか悪いことかを言えば、現代の価値観では「悪いこと」です。では戦時中の軍隊であればどうでしょう?上官が命令どおりに動かない部下に腹を立てて殴る。今の基準で考えれば悪いことですが。少なくとも第2次世界大戦当時は悪いことではありませんでした。

なぜなら、軍隊においては指揮命令系統がしっかりしていることが重要で、縦関係を作り上官の言うことが絶対という組織にしないと部隊が全滅してしまいます。だから軍隊においては「暴力」は必要だったわけです。恐怖による支配であっても、組織的に動けるようになっていないと、自分たちを守ることができないので。

今は「必要性のある暴力」など存在しないというのが世の中の常識であり、なおかつ感情表現としての暴力も認められません。必要性のある暴力が認められないというのは、それを実行してきた人には変えるのは難しいことで、スポーツ界の指導者の中には未だにそれを止められない人が少なくありません。

では感情表現として暴力はどうか。これはどうしてもなくせません。100歩譲って感情表現としての暴力を完全になくしたとして、じゃあ暴力という形でしか怒りを開放できない人はどうすればいいのか?言葉で怒りを伝える?それができないから先に手が出るわけです。そうなるとどうなるか、どこかでストレスが爆発するか心が壊れるか。

心が壊れて手を出してはいけないものに手を出してしまう。よくある話です。暴力はいけないことですが、暴力が禁止された世界では、暴力以外の感情表現ができない人にとってはものすごく生きづらい世界であり、ある意味では時代の被害者なんじゃないかと思うことがあります。「いけないから止めましょう」では何も解決しない。

力で解決する以外の方法を教える。それが教育というものなのですが、もちろんそんなことを学校では教えてくれません。むしろ暴力でしか表現できない人を排除するだけ。でも、それが将来性のあるアスリートだった場合には、排除することもできないので、その人は暴力以外の表現方法を学ぶことなく、それがいかに危険なことなのかも学ばない。

ちなみに中田翔選手が行ったのは「物理的な力」による暴力でしたが、SNSでは「言葉」による暴力が溢れています。言葉だと個人の表現になるのに「物理的力」だと許されない。ちょっと理不尽な気もします。もっともSNSも取り締まりが厳しくなってきましたので、数年後には言葉の暴力も今よりももっと糾弾されるのでしょう。

力の暴力も言葉の暴力もダメ。でも「ダメ」と言うだけでは何も変わりません。それに変わる表現方法や、その感情にならないための方法を共有できるようにしないと、あらゆる暴力はなくなりません。そして私はそんなことは「不可能」だと思っています。理想と現実はいつだって違うものですから。だから私は暴力の被害に合わないために逃げ回るわけです。

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