『悼む人』誰に愛され、誰を愛していたか

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芥川賞、直木賞を受賞した小説を手に取ることはほとんどない。そのうえ、何十万部も売れたとなるとさらにわたしの興味は薄れていく。この小説を読んだ人はことごとくこういう「あれを映像化するのは違和感がある」と。幸か不幸か、わたしは『悼む人』を手に取ることはなかった。そして映画館に足を運ぶ。

半分は好きな女優である石田ゆり子さんが出演していたからだ。好きと言ってもファンではない。彼女の出るドラマを見ることもないし、舞台も映画も観ない。わたしは彼女の人間性が好きなのだ。片想いと言ってもよいだろう。たくさんの本を手放したわたしの部屋には彼女に関するの本が4冊残っている。

その石田ゆり子さんがこの小説を手にして、自ら出演したいと直訴したそうだ。この物語にはきっと大切な何かあるに違いない。小説としてではなく、映画としてわたしの前に現れた『悼む人』はわたしが観るべき必然性があるのだろう。本や映画は決して偶然そこにあるのではなく、必ず意味があってそこに現れる。

人は死ぬとどうなるのか。わたしが納得できる答えを示してくれたのは北方謙三さんだった。人は死んだあと、人の心の中で生き続ける。父はわたしの中で生き続けている。そういう思いでわたしは大切な人の死を乗り越えてきた。父はわたしの中で生き続けているが、同じように母や姉や妹の中でも生き続けている。

そういう考え方を持っているので、映画の世界観にはすんなりと入って行くことが出来た。「死んだ人は心の中で生き続ける」という思いを持たない人がこの映画を見たとき、いったいどんなイメージを持つのだろう。もし、そのイメージがない場合は、石田ゆり子さん演じる奈義倖世の手によって殺される甲水朔也について理解できるのだろうか。

甲水朔也がただの狂気の人として映ってないだろうか。大切な人の中で生き続けるために彼が選んだ行為は狂気のようであるが、純粋で美しくもある。死んだ人が誰かの心の中で生き続けるのならば、死ぬことで誰かの心の中にいつづけることができる。わたしにとってはとても興味深く、そして新鮮な発想である。

この映画を自分の中で消化し切るのにまだ時間がかかりそうな気がする。きっと小説を読めば、見えなかった部分も見えてくるのだろう。ただ、いまは小説を読むことなく自分の中で消化し続けるつもりだ。今のわたしにはそれが必要なのかもしれない。愛することを忘れ、愛されていたことを忘れていた。

いまここで立ち止まりじっくり考えたい。

わたしはどんな人生を送って、どういうふうに他の人の心の中で生きていきたいか。あわてて答えを出す必要は少しもない。まずはどんなふうに愛してきたか、どんなふうに愛されてきたかを思い出そう。わたしの心の中で生き続ける人たちの声を聞こう。そうすればきっとわたしが進むべき道が見えてくると信じている。

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