「百戦百勝は善の善なるものに非ず」わたしが争いを選ばない理由

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派遣社員応援するためのサイトを運営していときに、派遣の悩みを相談できる掲示板を設置していました。ほぼ毎日のように誰かの悩みにアドバイスをしていました。

よくある相談は「派遣先が派遣法を守っていない」「派遣先で嫌がらせがある」といった類の内容で、わたしの基本スタンスは「できるだけ関わらず、次回の契約更新時に更新しないという選択をして派遣会社も変えること」でした。

ところが時々、派遣会社や派遣先を懲らしめたいというような相談をしてくる人がいました。わたしが、そんなことしても意味がないから派遣会社や派遣先を変えるように勧めても聞く耳を持たない感じで、「なぜ悪くない私が逃げなくてはいけないのか」と主張します。

あるときは世の中の派遣社員の立場があまりにも酷いのでこの状況を変えるのに協力して欲しいと頼まれたこともあります。争いが嫌いなわたしはもちろん断りました。わたしは世直しに興味はありませんし、救いたいのはいつだって目の前で困っているたった1人の人だけです。

世の悪を成敗したい、懲らしめたいという生き方を否定するつもりはありませんが、この人たちは一生こうやって何かと戦っていくのだろうなと思っていました。こう見えてわたしも社会人になりたてのころはかなり尖ってましたから、気持ちはわかります。

誰かを言い負かしたり、懲らしめても何も生まれないというように考えるようになったのは、その派遣社員の相談に乗るようになってからです。それまでは道理だの法律だのを振りかざして自分が賢いつもりでいましたがとんでもない。ただのアホでした。

大学時代の恩師がよく口にしていたのは、「罰は天が勝手に与えてくれる」ということです。出る杭になったとき叩いてくる人たちへの仕返しなんて考える必要はない。そんな人たちへの罰は神様が勝手に与えるから自ら手を下す必要はないということです。

その言葉のおかげか、わたしは自分の力を罰を与えたり、争うために使うのではなく、もっと前向きなことのために使うようになっていたのです。

もうひとつ別の考え方があります。

Aが何らかの理由でBを憎んでいたとします。Bは憎まれていることに反発します。AはBが憎いからどんどん憎悪のエネルギーをBに向けます。Bは負けじと反発のエネルギーを高めます。

仮にAがBを負かしたとしても、Bの反発がゼロになったわけではありません。Bが死なないかぎりAはBからの反撃に怯えなくてはいけません。

これは憎しみではなく「主張」であっても同じことです。Aがなんらかの権利を主張すれば、Bはそれを受け入れたくないがために反発して自分の主張をぶつけてきます。

相手に何かをしてもらいたい、何かを変えてもらいたいときにいきなり「主張」をぶつけることは一番の下策です。

人を動かしたい、世の中を変えたい。そういうときは力づくで変えるのではなく、そうなるように仕向ける。これが上策です。「百戦百勝は善の善なるものに非ず」孫子はうまく言ったものです。

ACミランの本田選手が面白いことを言っていました。チーム内にFK(フリーキック)の名手が本田選手以外にいて、自分が蹴りたいと思ったときどうするかという問いに「まず相手にFKを譲る」と答えました。

決して「自分のほうが上手いのだから自分に蹴らせろ」という主張はしません。そんなことを言うと相手が頑なにFKを譲らないということを知っているからです。無理やり強奪することもできますが、それではチームが勝つという本来の目的を失うどころか、チームが崩壊していきます。

「派遣会社が間違っているのだから正せ」という主張は正しいけど、その主張によって何かが変わることはない。そして本当に派遣会社がひどいのであれば、天が勝手に罰してくれるはずです。

事実あれから多くの派遣会社が倒産しています。本当に派遣社員のことを思って行動をしている派遣会社だけが生き残ったわけです。(そうでない派遣会社も多少生き残っていますが)

今朝の記事「横浜マラソンの「裸足をご遠慮する」ことについて考える」でラン仲間とfacebookでちょっとした議論を交わしていたときに「競技規則に則るなら裸足を禁止にするのは間違っている」という話が出ました。

これはわたしも前から伝えていますが、競技規則上は「シューズを履いてもいい」となっているため、競技規則に則るなら、本来は裸足があるべき姿だから裸足がダメだというのは筋が通りません。

でもこういう議論をするときにいきなり規則やルール・法律を持ち出すのも得策ではありません。なので競技規則の話が出たときに「規則を振り回さないほうがいい」と伝えましたがきっと意味までは伝わっていないかもしれません。

派遣のときもそうでしたが派遣法を武器に戦おうという人が大勢いました。

議論や交渉をするときに法やルールというのはある意味伝家の宝刀です。最初からこれを振り回していたのでは勝てる戦いも勝てません。人は正論で動くのではなく情で動きます。相手に変わってもらいたければ相手が動きたくなるように仕向けるのが基本です。

そして相手の言い分も聞き、お互いが納得いく結果が出て握手をしたときに伝家の宝刀は抜くものです。「そういえばこれは規則に反していますけど、どう解釈します?」と軽く聞く。決して問いつめないことです。

今後何をするにしてもお互いの関係で100%自分が有利に立てます。伝家の宝刀はそうやって使ってこそ役に立ちます。もっともわたしは最後になっても伝家の宝刀は抜かないですけどね。竹光なのがバレてしまいますから。

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