あの日わたしはランナーであることを感謝した

  • 2016.03.11
  • (更新日:2019.11.13)
  • LIFE
あの日わたしはランナーであることを感謝した

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もう5年、まだ5年。
ずっと昔のことのように思えます。そういえばあのときは藤沢で暮らし。

3月11日、会社の慰安会ということで午前中で仕事を切り上げ、わたしはみなとみらいにある温泉施設の万葉倶楽部にいました。

これからお風呂に入り、宴会前にマッサージを受けているときにそのときはやってきました。尋常ではない揺れに、マッサージをしていた女の子たちが動揺していたのでみんなで手を握り合っていたのを覚えています。

最初の揺れがおさまり、ビルから全員が退避した後に「各自帰宅」の指示。帰宅と言われても、どう考えても電車は動いていません。わたしが退避したのが一番最後だったのもあり、他の社員はすでにいません。

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とりあえず横浜駅を目指して歩き始めました。みなとみらいのあちこちで地面がひび割れし、地震の大きさが伝わってきます。ただこの時点では「地震があった」こと以外、まだ何も知らない状態です。

横浜駅では予想通り電車が止まり、復旧の目処が立たない様子。改札前にはどんどんと人があふれ始めていました。

横浜から藤沢まで20kmちょっと。走れない距離ではありません。その場にとどまっても仕方がないと判断したわたしはまだ揺れが残るなか営業しているすき家で牛丼を食べてから自宅へと走り始めました。

走りながら、家族の安否確認です。母は松山でしたので比較的早くに連絡が取れ、妹もなんとか無事を確認。姉とだけ連絡が取れません。何度電話をしてもつながりませんし、そもそも電話回線がパンク状態。

姉が妊婦さんだったもあり、さすがに連絡が取れないのは不安。進行方向を藤沢から鎌倉へと変更です。

同じように走って移動している人が何度か向かいからやって来ました。「お互い頑張って帰りましょう」そう言葉を交わすだけで走る力が湧いてきます。

横浜市から鎌倉市へと入った途端に、そこは暗闇の世界でした。すでに日が暮れていたのもあるのですが、鎌倉は全面的に停電していたのです。電話が通じないわけです。

渋滞して動かない車のヘッドライトだけを道標にわたしは走り続けます。

姉の暮らす家の近くでようやく電話がつながり無事は確認できたのですが、ここまで来ると顔を見ないと安心できません。家まで走りようやくひと安心です。

ちょうど電気が復旧し、テレビをつけるとそこには津波の映像が次々と映し出されていました。これが日本で起こったことだという実感がまったく持てません。

ただとりあえずは家族がみんなな無事であったこと、それを確認できただけで十分でした。

自分がランナーでなければどうしていたのだろう。ときどき考えることがあります。ランナーでなくても結果は変わらなかったかもしれません。でもランナーだから「走る」ことを選べました。

わたしはあの日ほど自分がランナーでよかったと思ったことはありません。走れることに感謝しました。

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あれから5年。個人的にも世の中的にも激動の5年でした。

いまわたしがランナーとして出来ることは1年に1度は東北を走る。それぐらいしかありませんが、これもランナーだからできる復興支援のひとつには違いありません。

わたしを走らせた人、走るわたしを支えてくれる人に感謝します。過去を振り返ることはあまりしないのですが、今日だけはあの日のことを思いながら走ります。

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