人間は生きるために生きているが、生きることを目的としてはいけない

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長生きするためには走ることをやめることだと言われたらどうするだろう。

あるお医者さんが言うには心臓の生涯心拍回数は決まっているらしい。人間の場合は一生で20億回ということになっているそうです。「だからわたしは運動をしない」と言う人がいます。医者や学者によくみられる考え方で、何万冊も売れた本にそれを書いている医者もいます。そういう人たちを一括りに批判するつもりはありません。おそらく「だからわたしは運動をしない」という人にもいくつかのタイプがあるのでしょう。一分一秒でも長生きして世界を救いたいという志のある人と、ただ長生きすることが目的になっている人がいるのではないでしょうか。

まずこの説を唱えている林先生は「速く歩くこと、ジョギングなどのトレーニングが基本」と述べています。なのに、運動することが悪であるかのようにいう人たちが実際にいることに驚きました。いや、実際に極度の運動は体に悪いのは自分の体で証明している。凡人がサブ3を達成しようというのはほとんど命を削るような作業だと感じながら日々のトレーニングを行い、コンデイションづくりをしている。問題はそういうことではない。

「だからわたしは運動をしない」と言う人たちはきっと60時間で300キロ以上の距離を走ろうという人や、南極や砂漠といった極限状態の中走る人たちの気持ちは一生わからないのだろう。もちろん分かる必要もない。生き方は人の数だけあるのだから。ただ、本だったりメディアなんかで「運動することは体に悪い」なんて言うのはどうだろう。安っぽいというか、薄っぺらさを感じるのはわたしだけだろうか。

走ると寿命が短くなると言われたとしてほとんどのランナーは走ることをやめないだろう。事故の危険があるからといってレーサーが車を降りることもないだろう。絵の具が体に悪いとして画家は絵を描くのをやめるだろうか。わたしたちは生きるために生きている。だけどそれは、1日でも長く生きるというのとは違う。1日も無駄なく後悔することのない日々を過ごせれば明日命が尽きたとしても納得できるだろう。少なくともわたしはそうだ。

別に他人がただ長生きのために運動をしないというのは別に気にもしない。ただわたしは苛立っている。健康のため、長生きのために運動しないことをアピールする人たちに。もっともそういう人たちにしてみれば、健康を害してまで何かを成し遂げようという人たちの存在に苛立つのかもしれない。

生きることは理屈じゃない。数字やデータを並べていかにも正しいことはこれですよと言う人たちの気持ちもわからなくもないけど、わたしはもっともっと感覚や感情を大事にしたい。とっさの判断で行動できる自分でありたい。走りたいという衝動に任せて自由に走り回りたい。それで寿命が短くなったとしてなんだというのだ。もちろん健康でありたいし、むやみに体を弱らせようとは思わない。ただそれは成し遂げたいことがあるからであって、決して長生きしたいからではない。

人間は生きるために生きているが、生きることを目的としてはいけない。

わたしたちはどんな理由があるにせよ、与えられた寿命は全うしなくてはならない。それが生きる意味だとわたしは考えている。だからいかなる理由があろうともわたしは自殺は認めない。それでもただ生きればいいというものでもないし、生きることが目的ではなく、目的があるから生きるというのが、他の動物とは違う人間のあるべき姿じゃないだろうか。

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