マラソンを利用して感動を作り出すことに不快感を感じずにはいられない

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24時間テレビでお笑いタレントの森三中・大島さんが88キロのコースを完走したそうだ。24時間テレビをほとんどまともに見たことがないので、なんとも言えないのだけどほとんど運動をしていない人が数ヶ月の練習で88キロを走るというのは簡単なことではない。24時間歩いていれば88キロなんて到達できるという人はやってみればいい。人間が1日に歩ける距離は40キロがいいところだ。眠らずに歩いても50キロというところだろう。普通の人は30キロ歩くのでもきついと思う。ではランナーの視点から考えてみるとどうだろうか。

ランナーとして日々鍛えている人にとって100キロというのは想定できるギリギリの距離ではないだろうか。100キロを走る自分を想像できるランナーは少なくない。実際にフルマラソンの先にウルトラマラソンを目指す人もいるし24時間マラソンに参加する人もいる。ランナーの中の一部のイレギュラーな人たちではあるけれども、そこを目指した人の多くが100キロ以上走ることに成功している。鍛えている人にしてみれば24時間で88キロというのは「ふ〜ん」という程度のことではない。間違っても偉業ではないし人に誇るようなものではない。

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勘違いしないで欲しいのだけど、おいらは決して森三中の大島さんを避難するつもりはない。応援するつもりもないけど。おいらが言いたいのは、なぜ24時間テレビで芸能人が24時間走るという企画を延々と続けるのだろうかということだ。しかも達成可能な距離を設定してまで継続する理由がおいらにはわからない。そのようなシーンは感動するのだろうか。感動というのは自然と湧いてくるものであるはずだ。作為的に作り出された感動になんの意味があるのだろう。そうでもしなければ募金が集まらないのか。

なぜだかわからないけど日本人はチャリティとか寄付とかを避ける傾向にある。英国なんかでは大きなマラソン大会に出る人の多くがチャリティを掲げて走るらしい。「私は◯◯のためにフルマラソンを走る。賛同してくれる人は募金してください」みたいな感じで。もしくはチャリティのチームに所属しているのだとか。そういう国で24時間テレビのマラソン企画があるならわからなくはない。この国でタレントが24時間走って、それに感動して寄付するという流れがあまりにも想像しにくい。テレビ業界の人たちはそれをあたり前と思っているのだろうか。

テレビ業界の常識と世間の常識が大きくずれているのは多くの人がすでに気づいていると思う。以前はマスコミの人たちが常識を作り出していた。でもその形が崩れてしまったいま、24時間テレビはあるべき姿を変えるべきなんじゃないかと思う。もっとも内容をほとんど知らないのでおいらの想像でしかない。でも、もはや誰も24時間テレビの存在意義を感じていないんじゃないだろうか。テレビ局と出演する芸能人以外は。

嫌なら見なければいいので、おいらは見ないことにしているが、マラソンを作為的な感動の道具として使われるのは気持ちいいものではない。実際にマラソンには多くの感動が詰め込まれている。42.195キロを駆け抜けた人のなかには涙を流しながらゴールする人だっている。昨年の飯能ベアフットマラソンのリレーであるチームの見せてくれた絆は今でもおいらの心にしっかり刻まれている。そういう感動と24時間テレビのマラソンの感動を一緒にしないでほしい。24時間テレビは感動したい人のための感動を作り出された番組だ。

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繰り返しになるけど、24時間で88キロ走るのは半端な精神力ではできない。ウルトラマラソン100キロを12時間程度で走る女性がいるのにとか無意味な比較はやめてるべきだろう。ただそれが周到に準備されたもので、感動を作り出すためのものだということにおいらは不快感を感じている。マラソンの感動は狙って作るものであるべきではない。そして感動を目的に走るものでもない。こういうことの繰り返しが、走ることが大変だという思い込みにつながるし、100キロを走ることが特別にすごいことだと勘違いしてしまう。

走ることは楽しいことで、努力さえすれば24時間で100キロはほとんど誰にでも走れる距離だ。そういう認識に変わってほしいと願っている。そういう認識になれば24時間マラソンでタレントがただ走っているだけという企画はなくなって、チャリティ番組のあるべき姿というのが変わってくるかもしれない。まぁテレビはどうでもいい。ひとりでも多くの人が走ることを好きになって、自由な感覚を持って走るようになってもらえればそれでいい。おいらが河童で走る理由のひとつもそこにあるわけだし。

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