ハダシスト遍路道を行く

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昨日の夕方練習で遍路道を走ってきました。

実家のすぐ近くの道が遍路道で第52番札所 太山寺までが約4km、その次にある第53番札所 圓明寺までは追加で2km。この区間をお遍路さんとして歩いたのは10年前になります。

昔の記憶を辿って……と言いたいところですが、当時の記憶がほとんどありません。ただ暑かったことだけ鮮明に覚えています。

遍路道の矢印に従って進みましたが、どこまで行っても記憶が戻ってこず、太山寺も圓明寺もまったく何も思い出すことがありませんでした。

我ながら自分の記憶力の乏しさにがっかりです。

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ここまで記憶が戻らないということが、実はスルーしたのではないかという疑惑すら出てきます。念のため、過去のブログを確認してみたら、ちゃんと通過していました(自分の名誉のためブログは晒しません)。

でもブログを読んでもまったく思い出せません。そしてここまでが前置き。

実はお遍路をジョギングペースで走ったら、何かを感じるかなと期待していました。お遍路とは八十八のお寺のことをいうのではなく、そのお寺とお寺の間の道のことを言うのだと10年前に学びました。

だとすれば、遍路道を走っていれば何かが見えるのでは、何かが見つかるのではないかと思ったわけです。

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でも、何にもありませんでした。普段走っている道と同じアスファルトの道路。中学生が下校し、地元のおばちゃんが軽自動車をかっ飛ばす道。重みも歴史も感じません。

そりゃそうです。想いのない遍路になんて何もあるわけがないんです。でも、そう思った瞬間に降りてきました。

「これが空(くう)か」と。

「空」というのは仏教においてとても重要な考え方です。「空」とは実体がない状態のことを言います。でも「空」は「無」とは違います。実体はありませんが、存在しないわけではありません。

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10年前から、わたしはこの「空」について、何もない空間をイメージしていました。「空っぽ」という意味での「空」です。昨日までそう思っていたわけです。

ところが、遍路道を走りながら、目の前の景色を見て「これが空なのだ」と感じたわけです。わたしのイメージしていた「空」とはまったく違います。

お遍路さんをしながら歩いていたときには、その景色は特別な道としてわたしの目には映っていました。でも、ランナーとして見たときには、ただの道でしかなかったわけです。

そこには特別さがありません。でもそこには確かに特別なものがあります。いまのわたしに感じられないだけで。

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これはどうも上手く説明することができません。「空」は言葉にした瞬間に本来の意味を失ってしまいます。だから、正しく解釈するのがとても難しい。

わたしも当然正しい解釈ができているわけではありませんし、偶然これが空だと思えるものをなんとなく感じられただけに過ぎません。

そして、それを感じられたからといって、何かが変わるわけでもありません(たぶん)。ただ、ここから色々考えていくことになるんだろうなとは思います。

きっと、あれから10年たった今だから見えるもの、感じられるものがあるのかもしれません。

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一瞬だけ「またお遍路をしてもいいのかな」なんて思いましたが、お遍路は呼ばれて行うものというのがわたしの持論。そして、きっとそれは今ではありません。

あの苦しかった日々を思い出すと、また呼ばれることはないほうが嬉しいのですが、今回こうして2つのお寺を巡ったのもなにかの縁です。

無が空になったわけですから(わかる人だけわかってくれればいいです)、お遍路を歩き始めるきっかけを引き起こすかもしれません。

10年前に歩いたのは、父が亡くなったことがひとつのきっかけです。でも、父が亡くなる直前に虫の知らせによって帰省したときに、歩いているお遍路さんを初めて見て興味を持ったのが事の始まりです。

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そんな縁があり、父が亡くなってお遍路に呼ばれたというわけです。

父の13回忌で帰省中にお遍路を走って「空」の本質に少しだけ触れる。その縁はきっと遍路道へと繋がっています。厄介なことにならなければいいという思いが半分と、今だから感じられる何かを楽しみにする気持ちが半分。

できれば哀しみを背負わずに……とは思いますが、さてどうなることでしょう。


フランスからお遍路にきました。
著者:マリー=エディット・ラヴァル
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