ときどき自分が本当に裸足ランナーなのか分からなくなることがあります。いや、正直なところ裸足ランナーではないのかもしれないと考え始めています。
もっとはっきり言えば、裸足ランナーという枠組みに入るのが嫌です。
ランニングシューズに関する情報発信を積極的に行っていますし、寒い冬は毎日どのシューズで走ろうかワクワクしながら、夕方のトレーニング時間を待っています。
じゃあ裸足で走らないかというとそうでもなく、きっとランニングを続けていく以上、裸足で走ることは止めないはずです。ただ、他の裸足ランナーのように裸足ランニングに対する愛はありません。
裸足ランニングについて語り合いたいとも思わないですし、切磋琢磨していく気もありません。習いたいと言ってくる人を拒むつもりはありませんが、でもきっと教えられることはありません。
わたしの走りはわたしだけのものです。人間はみんな骨格が違いますし、筋肉のつき方も違います。だから最適な走り方、どこを意識して走るのかはそれぞれ違います。それに、感覚的すぎて言語化するのがかなり難しいと、昨年練習会を開いて感じました。
あとは、言ってもみんなやらないですかね。HIITを週に2回入れたほうがいいとか、ジャンプ練習や筋トレをしたほうがいいと、わたしがいくら言っても、それを実践できないんじゃ教える意味はありません。
そういう意味で裸足ランナーというのは孤独なのかなと思います。
ランニングの世界のおいては典型的なマイノリティ。日本全国に裸足ランナーはどれくらいいるのでしょう?多く見積もっても500人?実稼働で100人程度じゃないかなと思います。
でも、わたしはマイノリティであることを嫌だと感じることはありません。どちらかと言えばマイノリティであることに心地よさを感じています。みんなと違うというのは楽しいものです。
でも、自分に酔うだけならいいのですが、間違っても選民意識を持ってはいけないと、自分に言い聞かせています。少数派に属していると、大なり小なり自分が特別なんじゃないかという感覚を持ってしまいます。
みんなと違うから特別ではあります。ただ、特別に「優れている」というわけではありません。みんなと違うだけです。
ところが、裸足にはとてもいい効果があり、シューズを履くのは愚かというような思想を持った裸足ランナーがいます。自分の中でどう思うかは自由ですが、シューズを履いているランナーに対して馬鹿にするような言動が目立ちます。
そして、そういう思想を持った裸足ランナーが集団になり、自分たちは周りよりも特別で優れていると主張する。その結果どうなるか……もう少し歴史を学んだほうがいい。
わたしはマイノリティは孤独だから美しいと思っています。少数派だから仲間意識を持って集団になってしまうのは分からなくはありませんが、裸足ランナーというだけで集まっても、それぞれにアイデンティティは違います。
そういう集団がひとつになろうと思うと、どうしても共通の敵を作ることになります。それがシューズを履いているランナーで、自分たちで勝手に裸足vsシューズという構図を作り出すわけです。
そういうのもいずれなくなるかなと思っていましたが、何年も前からその状態が変わらないなと。わたしはそれに居心地の悪さを感じていました。そして、もうそろそろ居心地の悪さに耐えるのも限界かなと。
別にどっちが正しいなんてことを言うつもりはありません。自分が正しいとも。
でも、苦しみも悲しみも孤独さも全部受け入れて自分の足で立つのが、わたしにとっての裸足ランナーにおけるマイノリティの美学です。そのうえですべての人を尊重できる自分でありたいと考えています。
誰かに分かってもらいたい、誰かのことを分かってあげたいというのは傲慢であり、それができるというのは幻想です。
自分に最適な裸足の走り方は自分で見つけ出すしかありません。その過程はとても孤独で寂しいものです。だけどそれはいずれ強さになります。誰かに教わった走り方なんて脆くて危ういものです。
今年はかすみがうらマラソンも飯能ベアフットマラソンも出ないと決めたのは、そういう理由によるものです。こう見えてお調子者ですから、行けば行ったで楽しめるとは思います。そして、裸足っていいなって思うに決まってます。
ところが、またしばらくしたら居心地の悪さを感じる。
このサイクルからは抜けることにします。わたしはわたしのやり方で裸足ランニングを楽しむとしましょう。誰かに認められたいわけではありませんし、自分が楽しんでるだけですから。
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