雑草:嫌われながら称えられる存在

人間とは不思議な生き物で、木を切って土地を作り、その土地に建物を建てた後に、また木を植えます。そして、そこに生えてくる雑草を抜きます。当たり前のことのように思うかもしれませんが、私にはどことなく違和感もあります。

詳しくは知りませんが、おそらく工場やビルなどは、ある程度の緑を植えなくてはいけないのでしょう。でもそれって今の時代にはマッチしていない気がします。緑化することはいいことですが、そのためにメンテナンスが必要になります。

昨日はそのメンテナンスのお仕事をしてきたのですが、なんだか不毛だなと感じたわけです。メンテナンスにはお金がかかります。もしくは社員が時間をかけて行います。緑化してるから仕方ないのですが、緑化をしなければ発生しないコストです。


現在いくつかの企業が二酸化炭素の排出量を売買しています。二酸化炭素の削減目標に届かなかった企業が、削減目標に届いた企業から排出量枠を買い取るという仕組みなのですが、やろうと思えば緑化も同じことができます。たとえばA市に工場やビルを建てる企業を募って公園を作ります。

これによって工場やビルの敷地内を緑化する必要がなくなります。その公園の運営をする会社を募集し、管理会社は公園でビジネスができるようにするわけです。コンビニが飲食店などが管理しながらも、自由にビジネスできるようになる。

もちろん、この案にはいくつもの問題があります。でも、賢い人たちが詰めていけば不可能ではありません。少なくとも木を切って、そこに木を植えて、雑草を抜くなんて不毛なことはしなくてよくなります。社会にも役立つ施設が増えることになり、そこには雇用が生まれます。


ビジネスの話はどうでもいいのですが、私が人間は不思議だと思ったのは「邪魔者」として抜くことになる「雑草」を持ち上げる文化があるという点です。よくあるのは「雑草魂」という言葉で、エリートと真逆な道を歩んできたアスリートなどに使われます。

雑草は必要ないものという位置づけというはずなのに、その雑草を称える。これはいったいどういうことなのでしょう。雑草が称えるほど素晴らしい存在なら、抜かずにそのままにしておけばいいのに、草抜きの仕事はなくなることがありません。

雑草を植える人もいません。もうそうなってくると「雑草」ではなくなるのですが、こういうところからも日本人は白黒はっきりさせない文化が根づいていることがわかります。YESかNOでは答えない、自己主張しない文化。こういう文化もいずれなくなるのかもしれませんが、きっと想像以上に長く続くはずです。


日本人は社会の中に多くの矛盾を抱えやすく(他所の国がどうなのかは知りません)、その最大の理由が「日本語」にあると私は考えています。世界トップクラスの難解な言語を私たちは使っており、そのために度々誤解を招くことになります。

そして誰かにとっての正義が誰かにとっての悪になることを、私たちは知っています。ある場所では雑草は邪魔者であり、ある場所では雑草はヒーローになる。「雑草のようだ」と言われて喜ぶ人もいれば、怒りだす人もいる。これが日本の面白さでもあり、魅力でもあります。

ただ気を付けなくてはいけないのが、自己矛盾を起こさせないということです。雑草を抜く役割をになっている人が、雑草のように生きようとすると、必ずどこかで心が破綻します。でも気づかずに自己矛盾させてしまうのが日本語の難しさ。だからこそ、自分の言葉をもう少し慎重に選ぶ必要があるのかもしれません。

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