神様のいるところ:大切な友を失う

仲良しな木が4本あります。お前は何を言い出すのだと、訝しく感じる人もいるかと思いますが、別にスピリチュアルな話というわけではなく、八百万の神の1人として、心を通じたというか仲良くなったというか(やっぱりスピリチュアルじゃないかとか言わないように)。

ひとつは伊豆山奥にある太郎杉と呼ばれる大木で、もう10年近く会っていません。そして残りの3本は伊豆高原の富戸、三島神社にある3本の木で、1本は町の守り木のような存在で、残りの2本は見事な花を咲かせる桜。それはもう、この世のものとは思えない美しさでした。

伊豆高原の宿でお手伝いしているときに、月初になると氏神様として三島神社に行き、その度にそれぞれの幹に手を当てて、言葉のない会話をするわけです。八百万の神なので、話しかけた順番とか、来るのが遅いとかで嫉妬したり、不貞腐れたりするわけです。


伊豆高原の宿で引き継ぎをした子が、今月で退職するということになり、昨日会いに行ってきました。その帰りに三島神社に挨拶に行ったのですが、境内に入って衝撃的な光景が目に入ってきました。そこには途中で折れてしまった桜の木。私は何が起きているのか分からず呆然としてしまいました。

待ち合わせに駆けつけたら、そこには槍が刺さって命を絶たれた友人が立っていた。そんな気分。衝動的に安全のための仕切りを超えて、幹に手を触れたのですが、その感触の軽さが、私にすべてを受け入れさせました。桜は生きたまま死んでいて、もう会話はできないということを。

もっと早く会いに来ればよかったと後悔している自分にちょっとだけ驚きました。そのときになって初めて気づいたわけです。その桜の木が友であったということに。そして八百万の神もいなくなるときがあるのだということを。


それは当たり前のことなのに、木というものは何百年も生きることができるから、ずっとそこにいるものだと勘違いしていました。とても悲しい出来事でしたが、おそらくその桜は根本から切られて、姿もなくなることを考えると、最後の姿を見れただけ良かったのかもしれません。

八百万の神とは少し違いますが、東京に小網神社という神社があります。日本橋エリアで唯一戦前から残る神社で、都内の強力なパワースポットとして知られています。一昨日、大阪きら来た友人と街ランをしたときに、その小網神社を訪れたのですが、その存在感に圧倒されてしまいました。

繰り返しますが、私はスピリチュアルには興味がありません。でも、八百万の神は信じていますし、神社には特別なものを感じることがあります。たとえば伊勢神宮をはじめとする、天照大神がかかわる神宮系は明治神宮を除いて、近づくことすらできません。


一昨日、東京大神宮も訪れたのですが、しれっと参拝しようとしたら、最後の1礼をする前に追い出されました。私が嫌われているにしても、そこには確かに神様がいるわけです。反対に北海道の神社は北海道神宮を除いて何も感じません。そこに神様はいないわけです(少なくとも私にとっては)。

でも、北海道の山や丘に神様を感じることがあります。それは八百万の神とは違う、アイヌの神様なんだと私は思っています。残念なことにアイヌの神様との向き合い方もアイヌの言葉も知らないので、桜の木のように友だちになるどころか、コミュニケーションをとったこともないのですが。

こういうことを言語化すると、自分がどこか変な奴だということがよくわかります。おそらくこれを読んだ人の90%以上が、何を言っているのか理解できず、私の妄想だと思うのでしょう。私も理解してもらおうなんて思いません。ただ、友を失ったことによる苦しさを、物書きとして追悼の意味を込めて書き留めておいただけのことです。

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