人類がこの世界に誕生してどれくらいの年月が経過しているのかは知りませんが、歴史として資料が残っているのは比較的最近のことで、たとえば縄文時代の歴史は推測でしかありません。出土した土器や骨などから「このような生活をしていたのだろう」と考察するわけです。
その考察が論理的に破綻していない場合、事実と認定されるわけで(実際にはもっと複雑ですが)、そうなってくるとその頃の思想みたいなことまではわかりません。どのようにして家族ができるのかとか、集落の統治とか想像したところで「わからない」わけです。
ただ、そんな人類の歴史も文献などが残っていると、さまざまな面が見えてきます。その文献の信憑性がどこまであるかという問題はあります。坂本龍馬とか三国志とか、フィクションが史実に置き換えられてしまうみたいなことも起きていますが、それでもある程度の情報があるから物語になります。
諸葛亮孔明が実在したかは知りませんが、劉備玄徳は歴史上存在したのはほぼ間違いのない事実。縄文時代を舞台にした歴史小説がないのは、イメージができないから物語を書きようがないというのもあります。何を書いても「嘘だ」と言われない代わりに、誰もその物語にはリアリティさが足りなくなります。
歴史を学んだことで、歴史がわからなくなる。何となくそんな状況にあります。北海道博物館に展示されていたものは、まず間違いなく「正しい」とされているものなのですが、何か大事なことが大きく欠けているように感じました。それが意図的なのか、それとも検証が難しいからなのかは分かりません。
そして何よりも、何が足りていないのかが霧の中にあって、ただモヤモヤしているだけという状態。ひとつはっきりしているのは、ここで学んだことだけをベースに物語を書いてはいけないということ。北海道博物館の情報はピースの足りないジグソーパズルのようなもの。
どれだけ丁寧に組み立てても、絶対に完成しないパズル。問題は足りないピースを、自分の想像力で埋めてはいけない可能性があるということです。人類の歴史の中には「触れてはいけないこと」があります。たとえば満州事変の真実について。そもそも満州とは何だったのかについても。
展示されている内容のなかでものすごく引っかかっているのは大東亜戦争についてのセクション。そこまではずっと北海道をベースに展開されていた展示が、その段階になって急に、主語が「日本」になっていました。それが意図的に何かを隠しているのか、それとも北海道には語るべきことが起きてなかったか。
もちろん全てを展示することは不可能です。観る側としても3時間近くかけても、しっかりと観ることができず、いずれまた再訪する必要があると感じています。ただ、やはりモヤモヤするわけです。北海道博物館で語られない歴史があって、語られるのも歴史の側面でしかないことに。
北海道の歴史で欠かすことができないのが「開拓」で、それに従事した人たちの苦労について表面的にだけ語られていることも、しっくりきません。想像を絶するような大変な思いをしているはずで、寒さで命を落とす者、熊やオオカミなどに襲われた者もいたはず。
そしてもっと大きいのは、なぜ開拓が必要だったのかという大きな疑問。こういうことをひとつずつ自分で調べていかないと、北海道を舞台にした物語を書くことができません。もしくはそれらに触れない範囲で書くことになるわけですが、それは私のやりたいこととは違います。
北海道が日本であることの大義がひとつのテーマですので、蝦夷島だった頃からの歴史を丁寧に掬って、自分なりに造形する。それをさまざま角度から見れるようにして、ようやく物語の舞台が整います。物語を書くというのは私が想像していたよりも、はるかに骨が折れる作業なのかもしれません。