小学生高学年くらいから時代劇にハマっていた時期がありました。好きだったのは暴れん坊将軍で、今でも東京を街ランしているときに江戸時代を感じさせるものがあると、うっすらとですが高揚感に包まれることがあります。眺めのいいところに行くと、江戸時代にはどんな風景だったか想像することも。
時代劇が好きだったのは、正義が絶対に負けないから。ヒーローものと違って、そもそも正義が窮地に追いやられることがなく、盤石の状態で正義が勝つ。まさに横綱相撲のような展開に安心していたのだと思います。今でも追い込まれて勝つ物語よりも、圧倒的な力で勝つ物語が好きだったりします。
大人になっても変化したのは、絶対的な力を持っているのに夢を叶えられなかったり、ものすごい努力をしたのに報われなかったりするストーリーが好きになったということ。絶対的王者が勝つのも相変わらず好きですが、乃木坂46の存在を知り、報われない美学というものに気づいたのも影響しています。
どれだけ努力したところで、開かない花はある。だけど、開かないまま枯れていく蕾には、咲き誇る花にはない美しさがあります。そこにあるのは諦めではなく、避けないことへの葛藤でなくてはいけません。諦めはどんな形であっても、私の中では美しくありませんから。
今でも時代劇がテレビでやっているのかはわかりませんが、日本人は勧善懲悪だったり、正義の人を好み、ズルをする人を嫌います。SNSで炎上しやすいのは、ズルをする人たちの投稿で、「日本人は真面目にコツコツであるべきだ」という考え方に、同調圧力を感じることすらあります。
ただ、時代劇でも悪役になる人だって日本人であり、見て見ぬふりをするその他大勢だって日本人です。最近、北海道の歴史の勉強をしていますが、江戸時代の蝦夷で日本人がアイヌ人に何をしてきたのかを読むと、日本人であることに誇りを持てなくなってしまいます。
清く正しく美しくの精神や武士道というものは、確かに日本人の一面ではありますが、それらが言葉になるというのは、そこが理想であって、現実はそうでないからでもあります。多くの人は心のどこかで楽をしたいと考え、自分より立場の弱い人を見つけてマウントを取りたがります。
それが悪いという話ではなく、勘違いしてはいけないということを伝えておきたい。私を含め、誰も完全な正義などではなく、理想とはかけ離れた一面を持つ。ただ、そうであったとしても、理想という花を咲かせるためにもがき続ける。そうありたいと思うわけです。
「理想どおりでないからダメ」。誰も理想の自分になれていないのに、インターネット上ではそれを錦の御旗にして他人を叩く。その行為が美しくないということを、そろそろ理解したほうがいい。厳しい目で見るのは自分だけでよくて、他人には可能な限り寛容であったほうがいい。
北海道を舞台にした物語を書くにあたって、アイヌは避けて通ることはできない存在。歴史を学べば学ぶほど、それを強く感じます。でも、蝦夷がアイヌの土地がというと、それを「そうだ」と言えるほどの確信的な知識もありません。そこにアイヌの人たちが暮らしていたのは事実ですが、土地が誰のものかというのは別の話。
アイヌ人は蝦夷にいて、でもアイヌ人の国は存在しなかった(おそらく)。その場合、蝦夷はアイヌの領土なのかというと違う気がします。だったら日本なのかというとむしろもっと違います。樺太に日本とロシアで国境線を設けなかったことからもわかるように、誰のものでもない大地があり、そこにアイヌの人たちが暮らしている。
そういうことは世界中で起きていたのだと思います。ただ、アイヌのことさえも最近まで知らなかったわけで、まだまだ知識が足りていないことを強く感じています。勧善懲悪では語れないことがいくつもあって、私はこの歳になって、ようやくそれを「面白い」と思えるようになりました。