適切な仕事量:作業効率を上げることの限界

一部区間で運転見合わせをしていた小田急線ですが、9月2日までに復旧させるとのことでした。なぜそんなに急ぐのか、雨の中での作業は危険ではないのかと思いましたが、9月2日は新学期で、多くの利用者が見込まれるというのも影響したのでしょう。秦野から厚木の学校に通えないというのでは困るので。

こういう緊急事態はともかく、頑張って働かなくてはいけない環境というのはどうなのかと疑問に思うことが増えてきました。仕事は頑張ってするものではなく、目の前のことを淡々とこなしていくものだと私は考えています。本来なら残業もなく、管理職は売り上げアップに頭を悩まさなくていい。

社会全体がそうなれば、この国でも違った景色が見れるような気がします。ただ、そうなると競争がなくなり、国力が落ちる可能性もあります。社会の発展は競争があってこそ。それでも、あまりにも多くの人が疲弊し過ぎています。そしてあちこちで人手不足になっています。


どこかで経済を縮小しないとアンバランスが広がるだけ。労働人口が減っていることを考えれば、必然的に生産力は低下します。それなのに未だに右肩上がりを目指すから、1人1人の負担が増えていきます。業務効率アップにより右肩上がりであればいいのですが、世の中の大抵の業務効率アップは労働者の負担を上げるだけです。

これはマラソンにもよく似ています。ランニングフォームを変えることで、ランニングエコノミーは向上します。同じ出力でも、理想的なランニングフォームのほうがエネルギー消費を下げられます。でも、マラソンタイムはそれほど変わらないどころが、むしろ後半に失速しやすくなります。

その理由のひとつが、ランニングフォームの変更よりスピードを出しやすくなるためで、これはオーバーペースを誘発します。もうひとつも同じような理由ですが、ランニングエコノミーが向上しても、それはマラソンのタイムを上げる要素のひとつでしかなく、マラソンを走る体ができていなければ、結果は変わりません。


人間の体力も同じで、いくら作業効率を上げたところで、耐えられる労働の量は変わりません。わかりやすいのは私がやっている倉庫のアルバイトで、動線の見直しなどで作業効率を上げて1時間に運べる荷物の量が増えたところで、体を鍛えないと限界が早めにやってくるだけです。

もちろん、私のような仕事好きの人間は労働時間や生産性を下げる必要はありません(寿命は縮むかもしれませんが)。反対に労働意欲がまったくない人に合わせる必要もありません。ただ、さまざまなことが効率的にできるようになった今は、労働時間を見直すべきなのかなとは思います。

高度経済成長期や私が働き出した20年前と比べれば、労働時間は短くなっていますが、仕事量は確実に増えています。コロナ禍にテレワークが広まりましたが、結局のところ多くの人が通勤に時間をかけている現実。せめて、この部分だけでも変わっていくといいのですが。


先日、都内を街ランしたときに、勝鬨橋を渡りました。築地から月島へと抜けていったのですが、そのとき知ったの月島は東京のベッドタウンだったということ。下町だから当然なんですが、勝鬨橋の麓に渡し跡があって、月島から通っていたというニュアンスの記載があって、腑に落ちた感じがありました。

あれくらいが人間にとっての理想の通勤時間です。職場まで30分以内。できれば職場直結の長屋もしくは寮がベスト。通勤時間くらい無駄なものはありません。通勤時間だけが自分の時間という人もあるもしれませんが、それは通勤時間ありきで、物事を考えているからです。

労働時間と労働の量を適切にして、職場と家の距離を可能な限り短くできれば、私たちはこれまでとまったく違った時間の使い方ができるようになります。もちろんそれをプラスにできる人もいれば、マイナスにしてしまう人もいるわけですが、それでもやってみる価値はあります。私の場合、空いた時間に仕事をするだけなんでしょうけどね。

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