トレーニング量:ポテンシャルを引き出す練習量

この世界で最も勘違いされていると言っても過言でない言葉。それが「努力は必ず報われる」です。私も努力は必ず報われると信じていますが、いつも言っているように「どのように報われるかはわからない」と考えています。スポーツの世界において勝利だけが報われることなら、「努力は必ず報われる」という言葉は大いなる矛盾を生み出します。

なぜなら努力していないアスリートなどいないから。もし「努力は必ず報われる」が「努力は必ず勝利につながる」という意味を持っているなら、敗者は努力をしていないことになります。もちろんそんなことはありません。それでも「努力は必ず報われる」が成立するっとするなら、「報われる」の解釈が間違っているということ。

何かを目標にして努力をしたとき、その目標を達成できるかどうかと「報われるかどうか」は関係ありません。いや、目標を達成するために努力は必要なのですが、努力をすれば目標を達成できるわけではないということ。ただ、まったく違うところで花が開きます。


私は大学院時代に人生最大と言えるほどの勉強をして、米国の技術士補にあたる資格に合格しています。信じられないことに、この資格がエンジニア時代に役に立ったことは1度もありません。日本国内での認知度が低いというのもあるのですが、そんな資格ではなく実力で信頼を勝ち得てきたからです。

資格を持っているからすごいと評価されるのではなく、仕事ができるからすごいと評価されたわけです。そうなると資格なんてなんの意味もありません。でも、仕事ができるのはその資格のために、途方もない時間を勉強に費やしたからです。それはエンジニアとしての仕事だけでなく、ライティングの仕事やアルバイトの仕事にも活きています。

資格を持っていることで報われたことは1度もないのに、その資格を取得するための努力が別のところで報われる。「努力は必ず報われる」というのはそういうことだと思います。ただ、そもそも努力とはどういうことなんだろうかと最近になって考えはじめました。


辞書によると「ある目的のために力を尽くして励むこと」とあります。まず難しいのは「力を尽くす」というのが人によって違うということです。ある人は目的のために人生をかけてトレーニングをして、ある人は家族や仕事を優先して、空いた時間を目的のために使っている。

これはどちらのほうが努力したか判断できる人はいるでしょうか。努力を量で測るなら、おそらく前者のほうが努力をしています。でも後者だって、いや後者のほうが努力をしている可能性だってゼロではありません。努力は数値化できないもので、仮に努力は必ず報われるとして、その努力を本当にしたのかというのは別問題であります。

また、その努力の仕方が本当に正しかったのかという問題もあります。たとえば1日8時間もランニングのトレーニングをしているとなると、練習量が多すぎます。練習後に適切な食事をせず、睡眠時間も削っているなら、いくらトレーニングで努力をしても報われるどころか、肉体は壊れてしまいます。


そして、最近注目しているのは「努力の量」です。最近の筋トレ理論では「限界を超える」ことは逆効果だという説があります。これはマラソンでも同じで「走った距離は裏切らない」というのは、「走った距離 ※ケガをしない範囲で」という注釈が付きます。

努力の量が大事だとすれば、月間走行距離を1000kmでも2000kmでもすればいいのですが、実際そんなことはしないわけです(夏休みの学生は1000km以上走るようですが)。ランニングにおける本当に必要な練習量がどこにあるのか。これはおそらく私が向き合うことになる課題のひとつ。

おそらく、想像しているよりも遥かに短い距離・短い時間だと思います。だから1度のトレーニングにおける成長もわずかなものになります。その時の負荷は、周りから見て努力しているようにまったく見えないくらいになるはずです。ただ、それを何千回、何万回と繰り返すことで向こう側の景色を見れるようになる。まだ妄想段階ですが、筋はそれほど悪くない気がします。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次