同じ空と違う色:弘前という異質な存在

以前からどことなく東北の空気感が好きだと漠然と思っていましたが、弘前に来てみると、同じ東北でもそれぞれ色が随分と違うように感じます。たとえば盛岡は閉塞感のようなものがあり、そこにの人間の深い部分を感じ、惹かれるものがあります。宮沢賢治の世界がそのまま広がっているような。

江戸から見ると、弘前はさらに奥地になるので、もっと暗いところがあるのかと思っていたのですが、むしろ逆でした。弘前は都会的というか、東京などの都会に対して後ろめたさや暗さをまったく感じることなく、自分たちの進むべき未来を進んでいます。

まだ1日しかいないので薄い感覚で話すことになりますが、盛岡からは東京が見えて、弘前からは東京が見えません。距離にしてそれほど離れていませんが、盛岡は新幹線であっという間に東京まで行けてしまいます。だから盛岡の若者は東京を目指します。


ただ、弘前も人口増加率でいえまマイナスですが、彼らにとって東京はとても離れた場所という感覚がある用に感じました。夜行バス以外では直接東京に行けないというのもあるのでしょう。新幹線に乗るにしても、飛行機に乗るにしても、かなり大きなアクションになります。

面白いのは弘前は藩庁であったという過去があるということです。藩庁だったのに、最終的には県庁は青森に持っていかれました。でも県庁でなくなった後も軍都として発展し、青森県尋常中学校が弘前に移転したという歴史もあります。弘前は衰退をしないために常に手を打ってきました。

そもそも津軽藩ができたのも、盛岡藩からの独立によるもので、それも生き残るための処世術のようなものがあり、土地は武力で奪ったものの、正式な領土として認められるために豊臣秀吉に働きかけたかと思うと、関ヶ原の戦いでは徳川の東軍に付きます。


面白いのは、津軽藩は石田三成の次男を匿って津軽に逃がしていることです。豊臣側を見捨ててはいなかったわけです。そして極めつけは戊辰戦争では奥羽越列藩同盟を抜けて、新政府軍側に付くわけです。歴史の先が読めているのではないかと思うほど、立ち回りの上手さを感じます。

ちなみに石田三成の次男は杉山八兵衛と名前を変え津軽藩に仕えるのですが、その子孫が蝦夷で起きたシャクシャインの戦いに出征しているのだとか。それを知ったとき、私が弘前に来たのは偶然ではなかったと確信しました。線と線が繋がって、私の大和と蝦夷の関係についての物語が一気に開けました。

そして、複雑なのは石田三成との繋がりを探りを入れるために、徳川家から津軽藩に出向いていた服部康成の存在。彼も津軽藩の家臣ということになるのですが、そうなると杉山八兵衛について、なんらかのやりとりがあったはずなのですが、私の調べた範囲では出てきません。


弘前城の小さな天守閣についても、常識では考えられないような発想で建てられた経緯があります。天守閣を建てることは認められないだろうということで、「天守櫓」の移築という形で申請し、見事に通ったわけですが、その発想がもう普通ではありません。

ただ、そのような常識にとらわれない発想、周りに流さずに自分たちの未来のためにすべきことをする。そういう思想が定着しているのかもしれません。弘前城の2000本の桜も、藩士が寄贈したものだと言われています。ここに桜を植えるべきだと考えた未来志向の藩士がいたわけです。りんごの苗木だって同じです。

それなのに真実は霧の中に隠されているような、掴み所がないのが弘前という街。あと2日で新しい気付きがあるのかもしれませんが、正直すでに気に入っています。ハマっているといってもいいでしょう。北海道についての物語を書くとき、きっと津軽は無視できない存在で今回はそれに気づけただけで十分です。東北の地域性についても考える切っ掛けになりましたし。

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