
地方に行くと歴史博物館に行くことが多いのですが、前回の北海道から文学資料館のようなところにも足を運ぶようにしています。そこに行くと、自分がいかに文学の世界を知らないかを痛感させられるのですが、少しずつ誰と誰が仲良しで、作家たちの人となりが見えてきます。
そうやって知識をつけていくと、もう物書きの時代ではないんだなと感じます。かつては「先生」であり、物書き同士で文学について語り合うこともあったようですが、最近の文学は個としての作家がいて、それに編集者がついて物語を書いていくというイメージがあります。
実際には作家同士で繋がりもあるのかもしれませんが、かつてのような深い交流はないように感じます。自分たちで作品を発表する場を立ち上げるという話も聞きません。今はすでに出版社がいくつもあるので、あえて立ち上げる必要はないのかもしれませんが。
物書きになりたい。漠然とそう思っていましたが、私の考えている作家と、現在の作家の姿はどこかでズレているのかもしれません。私は作家に対するリスペクトの想いがありますが、文学界について興味のない人のほうが多く、直木賞や芥川賞を受賞した作家ですら、多くの人にとっては「誰?」になります。
物書きであることで尊敬されることはないわけです。別に尊敬されたいわけではないのですが、それを寂しいと感じるくらいの感情はあります。作家の社会的地位というのは私が思っている以上に下がっていて、少なくとも昭和初期のような「先生」扱いはされることはないのでしょう。
社会的地位は高くないのに、作家であるとわかると距離を置かれる存在でもあります。どことなく特別であるというイメージだけが残っていて、近寄りがたい存在のようになっています。言葉を操ることがいかに難しいかを多くの人が知っていて、それを職業にすることが難しいこともわかっているから。
そういう意味では社会的地位は高いのかもしれません。ただ、もう作家であるだけでもてはやされる時代ではなくなった。誰もその存在を意識しない時代になったのでしょう。もちろんまだ本は売れています。でもそれは、ゆっくりと減っていくわけです。
もしかしたら、今こそ物書きはひとつになって、自分たちで作品を手にとってもらえるための活動を始めなくてはいけないのかもしれません。もう雑誌も本も売れません。そんな時代に物書きがどうやって生き残っていくのか。物書き同士が議論していく。
でも知名度のある人には出版社があり、食べていけるだけでの収入は得ていて、いまさら新しいことを手掛ける必要性も感じていないのかもしれません。かつて村上龍さんが、電子書籍に可能性を見出そうとしていましたが、電子書籍は結局のところ、紙がディスプレイに置き換わっただけの存在になりました。
どうすれば文章を読んでもらえるのか。どうすれば作品を手にしてもらえるのか。SNSの時代、動画の時代において文章で食べていくために何をすべきか、これは思った以上に大きなテーマなのかもしれません。それでいて、大きなチャンスなのかも。
誰もやっていなかったことがスタンダードになる。その可能性は大いにあります。私も小説を書くつもりでいるのですが、どう発表するのかは別軸で考えておかなくてはいけません。きっと正解は紙媒体ではない気がします。1冊くらい紙媒体になってもいいのですが。
理想は新しいプラットフォームで作品を発表し、それが広がって出版に繋がることです。その新しいプラットフォームを自分で作れるのか、既存の何かを利用するのか。課題はいろいろありそうですが、これまでと同じことをしても意味がないことだけは確実です。太宰治や宮沢賢治の時代とはもう違うのですから。