
お客様は神さまと言い出したのが誰なのかは知りませんが、少なくとも私が高校時代にアルバイトをするようになった頃には、それが普通の感覚でした。ただそれは、客が言葉にするものではなく、あくまでもサービスを提供する側のスタンスの話であり、カスハラなんて言葉はどこにもない時代のことです。
そこから時代は流れて、客が神様扱いされることに慣れてしまい、サービスを受ける側も偉いんだと勘違いする時代がやってきます。提供する側も仕事を離れれば提供される側になり、自分がしていることを、自分がしてもらうのは当たり前だと考えるようになったのかもしれません。
そこからさらに時代は流れ、「お客様は神様ではない」というスタンスが広がっていき、一方で神様扱いされることを当たり前に感じるようになった客が、「サービスがなっていない」と怒るようになり、そのギャップによってカスハラという言葉が生まれたのだと、私は考えています。
確かにサービスを提供する側とされる側は対等であり、定員が客に媚びへつらう必要はありません。スタート地点はここにあって、ただ他のお店との差別化を図るために、丁寧な対応などをスタッフに求めた結果が「お客様は神様」を生み出したわけです。それをやめれば当然差別化はできなくなります。
ただ、社会全体で流れが変わってきているので、神様扱いしないことが大きなマイナスにはならず、むしろ商品やサービスの内容で勝負する時代になっています。接客応対の質が落ちても、そこに良いものや必要なものがあれば、人が集まるわけです。そのことはとても健全だとは思います。
そもそもお客様が神様になるのは、お店のオーナーのスタンスであって、スタッフにとっては関係のないことです。時給1000円のアルバイトに、オーナーと同じ品質のサービスを求めることに無理がありますし、人手不足の今の時代においては、それを求めるとアルバイトは簡単に辞めていきます。
ただ、本当にそれでいいのか?と思うようなことが増えてきました。最近コンビニやスーパーで買い物をしたときに、買い物袋の手渡し方に違和感を覚えることが増えてきました。外国人がぶっきらぼうに渡すのはわからなくはないのですが、日本人の手渡し方が美しくありません。
心がなくて所作が美しくない。言語化するとそんな感じでしょうか。そんなものをアルバイトに求めるなという意見もあるかと思いますが、所作に心を込めるのは日本人の文化です。考え方はいろいろありますが、私はそれによって日本人は必要のない諍いを回避してきたのだと考えています。
自分の所作にほんの少しだけ心を乗せるだけで、あらゆる動きに美しさが加わり、そこでは醜い争いは生まれなくなります。でもそんな文化もこれからどんどん消えていくのでしょう。そしてSNSのような殺伐とした空気感が現実世界でも広がっていく。気づかいのない時代がやってきます。
実際に気づかいのなさを感じることも増えてきました。たとえば電車を待つ人たちが、出口を塞ぐように立っている光景。確かに並ぶのは扉の前となっているかもしれませんが、電車がやってくれば左右に分かれて、降りる人のスペースを確保するのが当たり前だと思っていましたが、最近ではドアの前から微動だにしない人が増えてきました。
まるでそこにいるのは自分の権利だと主張するかのように。でも、みんなが主張すれば、上手くいくことも上手くいかなくなります。だから、スマートに引くことが日本人の文化だったのですが、それがもう消えようとしています。まだ言われれば対応できるレベルですが、そう遠くないうちに言っても伝わらなくなります。
文化は歴史と共に変わるものですが、無くしてはいけないものもあります。挨拶や気づかいがそれ。お客様を神様としなくてもいいのですが、対等になる必要はなく、自分が半歩でも下がるくらいのスタンスは持っていたいところです。時代遅れと笑う人がいるかもしれませんが。