青春映画が好きで、坂道グループも好きで、そしたら「ゼンブ・オブ・トーキョー」に期待するじゃないですか。日向坂46の4期生全員が出演する映画で舞台は東京。修学旅行中の物語ときたら、キラキラしてて、切なくなって、笑いもあって、泣けてくる。
勝手にそう期待した方が悪いのかもしれません。ずっと、パズルのピースをひとつずつはめていき、ゆっくりと壮大な1枚の絵を作り上げていく感覚。そして、ちゃんと完成したわけです。おそらくこのパズルを考えついたとき、その人はとんでもない高揚感だったに違いありません。
それは機械設計にも似ていて、私も短い設計者としての期間に何度か同じような体験をしているからわかります。でも、そのパズルの凄さをわかるのは本当に限られた人だけで、ほとんどの人は、完成した1枚の絵を当たり前のように眺めているだけ。
そして、少なくとも私が観たかったのは、そんな複雑なパズルでもなければ、完成した絵でもありません。そのパズルの素晴らしさは理解できます。どうやって構築していったのか、頭の中で想像するだけでワクワクしてきます。でも、私が観たかったものではありません。
だから、映画「ゼンブ・オブ・トーキョー」を観終えてから、掴みどころのないフワフワした感覚に戸惑っています。この映画が日向坂46の出演でもなく、青春映画でもなければ、きっと素直に「面白かった」というのでしょう。私が目にしたのは、無理難題を解決するための緻密な計算式でした。
この映画は日向坂46のファン以外に誰が得をするのだろうというのが正直な感想です。誰が悪いわけでもないし、みんながベストを尽くし、良いものを作ろうとした。でも、ファンだけが楽しみ、内輪のためだけの映画に仕上がっているように感じたのは私だけではないはずです。
青春映画にはある程度のセオリーというものがあります。少なくとも話題になった青春映画の場合は。「ゼンブ・オブ・トーキョー」もそのセオリーを意識してはいるものの、11人というメンバーすべてに光を当てようとすると、どうしたってストーリーに無理が出ます。
この映画はあくまでも日向坂46の4期生11人を照らすための映画であり、(ファン以外の)誰かの心を動かそうというものではない。だからひとつの絵に向かって、ピースを埋めていくしか表現できなかったのかもしれません。でもファンはそれでいいわけで、私が勝手にハードルを上げていただけ。
でも、もっとやり方があったのではないかという思いもあります。誰も損しない撮り方ではなく、誰かが損してもいいから歴史に残る名作を作る方法が。製作を依頼した側がそれを望んでいなかったなら、それはもうどうしようもないことですが。
私が観たかったのは純粋な青春映画。私の基準の中では「ゼンブ・オブ・トーキョー」はそれに当てはまらず、どちらかといえば「日向坂46、4期生の今」を記録した映画。最初からそう思っていれば、どうということはなかったのでしょう。
映画というのは難しい興行だと改めて感じることになりました。映画はアートであり、宣伝でもあります。どんな形であれ、今回は日向坂46のメンバーの演技を映画関係者が目にしたわけで、それにより次のステップへと進むメンバーも出てくる。それなら、この作品が作られた理由もわかります。
でも、それはすべて私の頭の中のことであり、真実がどうなのかはわかりません。はっきりしているのは、私が観たかった映画ではなかったということだけ。それでもやっぱり、もう少し何とか……と思うものの、私になにかできるわけではないので、しばらくモヤモヤを抱えておくとしましょう。きっと時間が解決してくれます。