昨日のブログでXとInstagramの個人アカウントを50歳で閉鎖すると伝えましたが、ずっと考えていたことではあるものの、なかなか実現できていないことのひとつでした。もうSNSと自分の相性が悪くなっているのに、やめ時を見つけられず、ダラダラと続けていました。
思い切れたのは、手放す生活でいよいよ、自分の本質に関わるようなものまで手放すようになってきたことが影響しています。当初はいらないものを捨てていましたが、今は少しは残しておきたいと思えるものまで捨て始めています。2ヶ月でこの状態になるのは想定外でした。
10年前に実施したときには、かなりの不用品に包まれていたので、半年くらいはそこまで悩むことなく手放せていたような気がします。そこから10年間で、不用意にモノを増やしてこなかったのもあり、「とりあえず」持っているものが、かなり減っていたわけです。
人間に必要なものとは何なのか。これはとても難しい問題です。衣食住が満たされていればそれでいい。少なくともそれで困ることなんて何もなく、そこに多少の文化的素養でも入ってくれば、満たされながら生きることができるはずなのに、いつのまにか贅肉だらけ。
誰かに認められたいとか、愛されたいとか、有名になったり、お金持ちになったりしたいとか。そういう欲があるから人間は進化してきたわけですが、そういう欲が人間をよくない方向に導いているのも事実です。特に問題なのが、何かに依存する感覚です。
人間はそもそも、親に依存して育ちます。他の動物でも同じですが、人間は依存しやすいように作られています。そして、ビジネスとして商品やサービスを売る側は、依存心を高めるものをあえて提供します。依存させてしまえば、そのサービスを使い続けるから。
タバコやお酒がその際たるものですが、SNSも完全に依存する人間の特性を使ったサービスにになります。どのアプリも依存したくなるように作られていて、ただそれは巧妙に仕掛けられているから依存している実感がない。でも時間さえあるとアプリを開いてしまう。
では、なぜ50歳でやめると決められたのか。最大の理由は、私が飽きやすいということにあります。私は飽き性でとにかくすぐに飽きてしまいます。一時期フォロワーを増やすためにあれこれしてきましたが、それにも飽きてしまいました。そもそも内向性の強い人間なので、依存しにくいというのもあります。
私はスポーツチームやアイドルグループを熱狂的に応援するということはしません。応援する前に、自分がやるべきことがあって、誰かを応援してる場合ではないという意思が働きます。自分よりも裕福で好きなことをしている人を、どうやって応援したらいいのかわからないというのもあります。
誰かに評価されたい。これは多くの人にとって、本能として求めるものなのだと思います。高く評価されることで、自分の存在意義を明確にできる。でも、その評価そのものが薄っぺらい偽物だとしたら?少なくともSNSにおける評価など、何の価値もありません。
それでもいいからという人に、私なんかがかけられる言葉はありませんが、自分の評価基準はいつだって自分自身の内側に持つべきです。良いか悪いかは自分が決める。自分が納得していれば、周りの声など気にする必要はありません。すべては自分で納得できるかどうか。
自分以外の誰かに自分の人生を委ねる。依存するというのはそういうことです。それって楽しいのでしょうか?あなたはそれで、本当になりたかった自分になれているのでしょうか?依存しないこと。SNSにも社会にも。2025年は自分だけの道を突き進みましょう。