日本という国と契約を結んだ覚えはなく、日本という国に生まれたというだけで日本人になる。あるいは日本に所属する。その仕組みはおそらく世界のどの国も同じで、「まず国ありて」の考え方を受け入れることができず、だからといって、困ってもないから日本人をしています。
この国に所属していて便利なのは、表現の方法が多彩だということ。もちろん他の国のことは知りませんが、おそらく、これほど行間や空気を読む能力が求められる言語は、日本語の他にはありません。その上で、この国には「表現の自由」があります。
もっとも、その表現の自由というのは表面上のことであり、なおかつもっとも間違った解釈をされている「自由」だと、私は考えています。たとえば日本は報道の自由度が世界70位となっていて、かなり低く評価されています。この背景にあるのが「言えない雰囲気」です。
この国には「タブー」がいくつかあり、たくさんの暗黙の了解によって成り立っています。このタブーには良い面もあれば悪い面もあります。最大のデメリットは、大手メディアがペンを置いたら、弱者の声が誰にも届かなくなるというもの。だから、弱者はさらに立場が弱くなります。
それを大きく変えたのがXなどのSNSの登場です。SNSは情報拡散力が強みの個人メディアであり、弱者でもやり方によっては声を上げることで社会を動かすことができます。これにより救われた人もいますし、私自身も今の自分の立場を確立するのに、何度となく活用してきました。
誰でも発言できる。自分が社会を変える可能性もある。その間違った万能感が広がっていることが、私がSNSに馴染めなくなってきた理由のひとつです。私が東北を好きになったのは「言葉にしない文化」がそこにあるから。寒くて口を開きたくないからとよく言われますが、東北の人は多くを語りません。
語らないからこそひと言に重みがあり、語らないからこそ、気を遣い合う。そういう古い感覚が、日本をダメにしたんだと若者なら言うかもしれません。でも、私にしてみると、何でもかんでも言葉にしてしまう時代が日本をダメにしているように感じます。
では弱者は黙っているべき?そんなことは知りません。言いたいたら言えばいいし、言いたくないなら言わなければいい。私が言いたいのは「余計なことはしゃべるな、バカがバレる」ということです。SNSには笑えないレベルのひどい呟きが溢れています。
ある人が「なぜ箱根駅伝には関東の大学しか出場していないのか」と問いかけをしていました。問いに対して正しく回答している人もいましたが、深みのある回答をしている人はいませんでした。それどころか、何も知らずに適当な回答をしている人があまりに多くて驚きました。
別の投稿ですが、「箱根駅伝の外国人留学生は禁止したほうがいい」とか「繰り上げスタートは残酷だからやめるべき」といった投稿もありました。よく考えられた投稿ならまだわからなくもないのですが、ただ思ったことを文章にして投稿しただけ。
なぜ知らないのに回答するのか。なぜ深く考えずに投稿するのか。それによって自分の愚かさを露呈することになり、「私はバカです」と看板を背負っているようなものなのに。それを意図的にしているのであれば止めませんが、表現の自由だと主張するなら「恥ずかしいからやめておけ」と忠告します。
別に鼻水を垂らしたような文章だけが該当するわけではなく、一見すると賢そうな社会を切っているつもりの投稿も同じ。賢く思われたいならSNSなんかでは語らないこと。私は優しいので、そんな投稿を晒したり炎上させたりはしません。ただ、黙って離れていくだけです。