Netflixに加入してから移動中に動画を見る機会が増えました。意外とアニメが好きなんだなということを自覚しましたが、先日本屋で北方謙三さんのチンギス紀が文庫本化されているのを見つけ、数日前から読み始めましたが、やっぱり小説が好きだということを思い出しました。
小説から少し離れていたのは、電子書籍と老眼の相性が悪かったからという理由もあります。文章を読むのにメガネを外さなくてはいけない煩わしさから、電子書籍を手にしなくなっていましたが、チンギス紀をインストールしたところ、メガネをしたままでも読むことができました。
老眼が進んで読めるようになっただけかと思いましたが、この際理由はどうでもよくて、久しぶりの北方謙三さんの小説を貪るように読んでいます。まだ物語の序盤で、登場人物を把握するだけでも大変ですが、ページを捲る手がまったく止まりません。
あまりハマりすぎると、私がこれから書くつもりの小説が、北方色に染まってしまうので気をつけなくてはいけませんが、そのときはそのときです。大事なのは読む楽しさを取り戻すこと。小説が好きでない人、楽しめない人にいい文章は書けませんので。
私は好みの作家さんが偏っていて、どんな小説でも読むというわけではありません。最近は北方謙三さん、浅田次郎さんが中心で、20〜30代は村上龍さんや石田衣良さん。もしからしたら50代になって別の作家さんを好きになるかもしれません。
同じ作家さんの本を読むと、自分の思考に多大なる影響を与えます。私はとくに歴史小説が好きなので、間違った歴史観を持ってしまうリスクがあります。浅田次郎さんの小説がまさにそれで、きっと私の中国に対する歴史観は歪んでいます。
ただ、そこを入り口にして興味を持てるというメリットはあります。村上龍さんの影響を受けたから私はキューバに向かいました。中国にハマっているのも偏った作家さんの小説を読んでいるからです。私はそれでいいと思っています。人間は結局のところ誰かの影響を受けて生きています。
私は多くの人と関わっていますが、深い付き合いになっている人は限られています。その人たちの影響を受けてはいますが、それでも毎週のように会うわけでもなく、数ヶ月間も会わないことだってあります。だから、小説のほうが私に与える影響は大きくなります。
小説によって人生が大きく変わったと言っても過言ではありません。だからこそ自分で書こうと決めたのですが、もちろん最初から上手く書けるなんて思ってもいません。いや、売れるような小説を自分に書けるなんて1ミリも思いません。ただ書きたいことがあるから書くだけ。
最近、少しだけ苛立っています。このブログを読んでくれる人は、なんとなく察しているかもしれませんが、私はこの苛立ちは物語を書くのに必要なものだと考えています。反骨心のようなものがなければ、物語を書き続けることはできません。だから苛立ちは準備が整った証拠。
自分が何を好み、何を嫌うのか。それを把握するだけでも、小説に1本の軸ができます。世の中の人がみんなキチンとしていたら、私は何も苛立つこともなく、小説を書き続けるモチベーションを維持できない気がします。だから、苛立っている状況を嫌だとは思いません。
昔なら苛立ちがそのまま書きたいことのテーマにしていましたが、50歳が目前にまで迫ってくると、自分の心の揺らぎのようなものを大切にしようという気持ちが湧いてきます。まさかそんな人間になるとは思いもしませんでしたが、書き終えた頃にはまた新しい自分になっている。そんな未来も少しだけ期待しています。