
愛媛マラソンではスタート直後に息苦しさを感じ、SCCではゆっくりのペースで入ったのに、コース途中で足がまったく動かなくなりました。おそらく呼吸器系のトラブルだろうということで、10年以上前からお世話になっているかかりつけ医に診てもらうことにしました。
気胸の可能性があるということでしたが、レントゲンには異常がなく、とりあえず様子見しようということになりました。そのとき「普通の人と変わらないくらい肺は広がっている」と診断されましたが、自分としてはいつもの半分程度の広がり具合だったのですが、説明しても理解を得られないと判断して撤退。
息を深く吸えないことを実感していますが、日常生活においては何ら問題ないわけで、普通の人と同じだけ肺が広がっているなら、あまり深く考えないほうが良さそうです。あと2週間ほど様子をみて、改善されないようなら、再検査も選択肢に入れます。
病院にて順番待ちをしているときに「それでは氷河期世代がかわいそう」という声がテレビから聞こえてきました。ふと視線を上げてみると、初任給の値上げについての特集が朝の情報番組で組まれており、コメンテーターか芸人かがコメントしているところでした。
最近、テレビを見る機会が何度かあり、よく「氷河期世代がかわいそう」という発言を耳にします。当事者の1人としては、とても不愉快な気分にさせられます。「あなたに憐れまれる覚えはない」というイラつきの感情が湧いてきて、その無責任な発言を拒絶しようとします。
親や親戚くらい身近な人たちに言われる分には素直に受け入れられます。でも、コメンテーターは、自分は良識ある常識人ですというアピールするために、氷河期世代を利用しているだけ。そもそも「かわいそう」だから、何だというのでしょう。
「私は氷河期世代より前の世代で、就職活動で苦しむ氷河期世代に対して何かしてあげたいと思っていました。ただ当時は私も若手で、歯車のひとつとして、手を差し伸べられることが何もありませんでした。今はそれなりの地位になったので、これから氷河期世代に対して、できるかぎりのサポートをしていきます。」
これならわからなくはありません。勘違いしないでもらいたいのですが、別に誰かのサポートを受けたいというわけではありません。無責任な発言に苛立ちを覚えるというだけのことです。そもそも氷河期世代は50歳前後であり、それくらいの年齢の人間を憐れむというのはどうなのでしょう。
みんな30年近い社会経験があり、それぞれが自分のやり方で生きてきたわけです。それに対して「かわいそう」とするのは、積み重ねてきた30年を否定しているようなもの。もちろん褒められたいわけでもありません。ただ、私たちは「それでも生きている」わけです。
そして、すべての氷河期世代が等しく苦しんでいるわけではありません。しっかり稼いでタワーマンションで暮らしている人もいれば、海外で活躍する人もいます。私のように自分の好きなことだけをして生きている人もいます。氷河期世代というラベル付けそのものに違和感があります。
苦しい思いばかりしてきたわけじゃないし、苦しい思いをしたのは私たち世代だけではありません。もっと上の世代は「24時間戦えますか」の世界で、パワハラが当たり前だったわけです。ただそこに希望がありました。そういう意味では、私たちの世代に足りなかったのは初任給ではなく「希望」でした。
ただ、人間は希望がなくても生きていけます。少なくともそれを私たちが証明してきました。大事なのは与えられた環境でいかに適応するかということ。不便さは工夫を生み、厳しさは向上心を育てます。その時代、その年齢でしか得られないものがあります。私たちの世代には私たちの世代だけの経験をした。ただそれだけのことでしかありません。
