走るという遊び:すべての人が自宅まで走って帰れる未来

ランニングやマラソンを「遊び」と表現すると怒る人もいるようですが、私がこれから手掛けようとしているのは、まさに「走る」を「遊び」にするという作業です。これまで何度も伝えてきましたが、ランニングはもっと自由であるべきです。

ところが、ランニングにしてもマラソンにしても、「真面目に取り組むもの」といった雰囲気があり、それが参入障壁を高めています。「走るのが苦手だから」と言う人がいますが、走るのが苦手な人間などいません。誰にでもできることで、誰もがやってきたことなのです。

「真面目に取り組むもの」と考えてしまうのは、体育の授業や部活などで、のんびり走っていると教師や先輩から叱られた経験があるから。もしくは叱られた人を見てきたから。でも、よく考えてください。ゆっくり走ってなぜ叱られなくてはいけないのでしょう。


何事も全力で取り組むべき?では息を切らせて走ることは、全力で取り組んだことになるのでしょうか。苦しい思いをすることと、全力で取り組むことは違います。全力で取り組むのは、自分を最高の状態にするためであり、ゆっくり走って心身ともに最高の状態になるなら、それは「全力」になります。

そもそも、現代において全力で走らなくてはいけない理由などどこにもありません。駆け込み乗車も禁止されていますし、点滅している青信号に向かって駆け出すのも危険です。息を切らせて走らなくてはいけなかったのは、戦争の影響が色濃く残っているためです。

体育は軍隊と深い繋がりがあります。軍隊に入ったときに、スムーズに集団行動できることを考えて教育されています。ゆっくり走ったのでは敵の標的になりますし、隊の乱れは殲滅につながります。でも、少なくとも日本においては、そのようなリスクは存在しません。

津波や火事から逃げるのに、速く走れたほうが有利なのは間違いありません。でも、それは「みんなが速い」ことが前提です。ほとんどの人は自分だけ先に逃げるなんてことはできません。だとすれば、みんなが走れるようになればいいわけで、学校教育は間違ってないと思う人もいるかもしれません。

確かに学生時代だけを考えれば、「全力で走れ」は間違いとも言えません。でも現実として、その影響で走ることが嫌いになり、社会人になってから運動不足になって、走るのが苦手とする人ばかりになっています。みんなが走れるようになるには、これまでのやり方では限界がるのは明白です。

走ることが遊びになるなら、楽しいことだという認識が広まれば、無理に走らせようとしなくても、みんなの生活の中にランニングが当たり前のように根付きます。ゲームに夢中になる子どものゲーム機を取り上げるように、走ることに夢中になる子どものシューズを取り上げる未来だってやってくるかもしれません。


実際に走れるようになったばかりの子どもは、周りを見ずに走り出して、親を困らせています。走り出すのは人間の本能だというのが私の考え方で、そこに好きも嫌いもありません。私自身も走るのが好きかと聞かれると、いつも返答に困ります。

では具体的に何をするのか。それについてはまだ考え始めたばかりで、ほとんど何も思いついていません。はっきりしているのは、マラソン大会も「走るという遊び」のひとつでしかないということ。マラソンを選ぶ人がいて、走り旅を選ぶ人がいる。

そうやって1人でも多くの人が走り始めて、東日本大震災のときのように交通網が麻痺しても、すべての人が自分の足で自宅まで帰れるようになればいいなと考えています。たとえば9月1日の防災の日を帰宅ランの日にする。そんなムーブメントが起こすところまでは考えています。

著:大平 哲也
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