稲作:お米は日本の文化の根幹であり、ただの食材でもある

令和の米騒動と呼ばれるような状況になり、どのメディアも毎日、お米に関する情報を発信しています。お米の値段が2倍にもなり、生活を圧迫しているケースもあり、一方で米農家の方は、今くらいの値段でないとやっていけないと嘆いている現状。

それを踏まえて、ある政治家は「いまの価格で購入できるくらい所得を増やすべき」としています。ただ、そうなると世の中の物価も上がることになり、結果的に米農家の収入は相対的に低いままなので、「もっと高くならないとやっていけない」となって、根本的な改善にはなりません。

お米は日本という国にとって特別な存在です。歴史を遡れば、稲作こそがこの国の根幹でもあり、日本の象徴でもあります。稲作がなければ天皇制というものも誕生しなかった可能性すらあります。江戸時代はお米が貨幣に近い存在で、武士の給料もお米だったわけです。


とりあえず、お米さえ食べていれば何とかなる。というのが日本の強みでもあります。その場合のお米は白米ではなく玄米なのですが、1日4合の玄米と味噌、少しの野菜があればそれでいいと、宮沢賢治も「アメニモマケズ」で述べています。

日本人のお米に対する執着の強さは、北海道開拓の歴史にも表れています。北海道で稲作をするというのは、今でこそ当たり前になっていますが、少し前まで「北海道のお米は美味しくない」という考えが広まっていて、それ以前は「蝦夷で稲作は無理」とされていた時代もあります。

それでも、稲作を手放すことができなかった移住者が北広島で稲作を成功させました。それはもう執念としか表現できないほど苦難の道で、でもそれをやり遂げる必要があったわけです。北海道に来たから、主食を麦に変えるなんてことは、当時の日本人にはできなかったわけです。

とはいえ、「日本人は米」というのは感情的な思考でもあり、そうでなくてはいけない論理的な説明をできる人はほとんどいないはずです。「パンがなければケーキを食べればいい」というのが、合理的な考えであり、少なくともいまの時代にお米は必須ではありません。

その合理的な考え方と「お米は日本の文化の根幹」とする考え方は相容れないものがあり、令和の米騒動をより複雑なものにしています。どちらが正しいという話ではなく、どちらにも正義があり、それらが水と油になっていらというだけのことです。

お米を特別なものとしている人たちの感情を、合理的に考える人たちが弄んでいる。もしくは食いものにしているところはあります。それ自体は別にどうでもいいことなのですが、お米に対する思いは、個人差が大きいという認識は、それぞれが持っておく必要はあります。少なくとも議論するような場合には。


文化としての稲作と糧としてのお米を、いまの時代にどうやってひとつのものとして捉えるか。個人的には面白いテーマだと感じています。お米がお金と同じ価値があった時代と現代では、価値観がまったく違い、でもどこかで石高の時代を引きずっている。

そして、お米をめぐって、人間の浅ましさが表面化している。ただ、私自身はそれを追い続けるほど暇ではなく、お米がないならパスタを食べるし、小麦もなければ肉を食べるだけ。食べるものがなくなれば、そこが私の終着点になるだけ。

それが1年後なのか10年後、20年後なのかはわかりません。ただ、その未来は絵空事ではないという危機感だけは持っておこうかと。だからといって、何か特別な用意をするわけではなく、今日もまた淡々とやるべきことを積み重ねるだけですが。

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