
1日1個手放す生活もいよいよ後半になってきました。それは50歳へのカウントダウンを意味します。気持ちだけは18歳の頃から何も変わっていないのに、体は確実に老化を進めている。このアンバランスさを受け入れると楽になるのですが、私にはまだ若さへの未練があります。
年齢的な若さには魅力を感じることはありませんが、残された時間に大きな差を感じます。18歳の頃に50歳の自分なんて考えもしませんでしたが、今は何をするにしても「終わり」が頭をよぎります。ランニングですら、どこかでできなくなってしまうわけです。
ただ、それによってネガティブになっているのではなく、むしろ走れなくなったり、いろいろできなくなったりしてから何をしようかという楽しみがあります。たとえば70歳になったとき、もう走れなくなっていたら何をするのか。本を読むだけの日々で満足するのか。
私は基本的に情報を作り出す側の人間で、消費することをあまり得意としていません。まったく消費しないわけではありませんが、アウトプットのためのインプットという面が強く、その意識がなくインプットしていても、いつの間にかアウトプットにつなげています。
それゆえに、人生に失敗などないという考え方になっていますし、上手くいかないことでひどく落ち込むようなこともありません。その瞬間は笑えないような失敗をしても、数時間後にはネタになっています。もちろん、わざと失敗することはありませんが。
常に不安を抱えながら仕事をしています。アルバイトもクライアントのいる仕事も、私の提供したものでよかったのだろうかと。もちろんRUNNING STREET 365でも多少はそう思うこともありますが、RUNNING STREET 365はほぼ自己完結なので誰かに迷惑をかかることはありません。

話を元に戻します。モノを手放す生活もここまでくると、本当に手放せるモノがなくなってきます。必要ないと言い切れるモノはほとんどなく、最近はまだ使えるモノ、持っていれば1年に1回くらいは出番が来るようなモノまで捨てています。
ただ、それらがなくて困ることはありません。衣類もそこそこ手放していますが、まだ「もったいない」「まだ着るかも」と思って手放せていないモノもあります。でも、実際にそれらがないと困るかというとそうでもなく、ないなら別の服を着るだけのことです。
幸い私は、モノに思いを乗せることはほとんどありません。「あのとき着た服」みたいな感情はまったくないので、思い出に引きずられて手放せないなんてことはありません。それは衣類だけでなく、他のモノでも同じです。必要かどうかだけで手放すかどうか決めています。
ただ、誰かにプレゼントされたモノというのは引っかかってしまいます。プレゼントしてくれた人が嫌な思いをする可能性があると思って、手放すモノに含めずに、そっと処分したモノもいくつかあります。それなら持っておけばいいと思うかもしれません。
でも、思い出は自分だけのものであり、私がいなくなったら何の価値もありません。私はいずれいなくなります(私だけでなく誰もが)。そのときに、できるだけ痕跡を残さず、関係する人が数時間で片付けられる状態にしておきたいという思いは年々強くなっています。
必要ないのに手元に置いておき、いなくなった後にそれを誰かに処分させる。そういうことだけは避けたい。だから最後はリュックひとつの荷物だけで暮らせるのが理想。またそれは現実的ではありませんが、ここからさらにギアを入れ、思い切った処分をしていきます。