結実:努力はどのような形で報われるのか

私は幼いころに体が弱かったのもあり、両親から運動できる環境を与えてもらえていました。幼稚園からスキミングスクールに通い、小学生からは野球。そこからハンドボール、サッカーと変化していき、今ではマラソンが仕事のひとつになっています。

運動に対するセンスがないため、どのスポーツをするにしても(スイミングを除き)、知識を大切にしてきました。純粋な体力では同年代にどうやっても敵わないため、理論や戦術などを重視するようになり、自分に足りないものを補うように工夫してきたわけです。

ピラティスを取り入れてから、どんなスポーツでも卒なくこなすというか、平均以上のパフォーマンスを発揮できるようになったため、この15年くらいで出会った人からすると、運動が苦手な私をイメージするのが難しいかもしれませんが、徒競走はいつも後ろから2番以内でした。


ただ、体を動かすのは好きで、それでいて聖闘士星矢のような、ヒーロー成長型のアニメや漫画が好きだったのもあり、運動が苦手なわりに、真剣かつ懸命に競技と向き合っていました。いま思えば、志が足りてなかった気もしますが、やれる努力はすべてやった気がします。

その結果がいまの私であり、だからこそ「努力は報われる」と信じています。ただ、努力は自分の希望する形で報われるわけではありません。私はサッカーで食べていくために高校から大学までサッカー中心の生活を送りました。でもプロにはなれませんでした。

でも、そのときの努力はランニングで報われました。サブ3も達成していないし、素晴らしい結果を残してもいません。でも、ランニングに関する仕事をしているのは、学生時代にサッカーに取り組んでいたからです。あの時代、適当に過ごしていたら、ハダシストは存在しません。

努力の報われ方に関して、多くの人が勘違いしています。「報われない努力だってある」と言う人がいるのも、その勘違いが影響しています。目標があり、そこに向けて努力する。でも報われるのは必ずしも「目標達成」という形であるとは限りません。

相手がいる競技においては、それは当然のことで、チャンピオンや優勝者はいつだって1人(1チーム)しかいないわけです。みんなの努力が報われて、みんながチャンピオンになったり、大会で優勝できたりするわけではありません。努力したって試験に落ちることもあります。

でも、積み重ねてきたものが無駄になることは絶対にありません。努力はいつだって、未来への扉の鍵になります。鍵がなければ開かれることのない未来がたくさんあり、努力をしていないと手持ちの鍵がほとんどない状態になるので、未来の選択肢が狭くなります。


もっとも、選択肢が多いことが必ずしも良いこととは限りません。いつも言っていることですが、生きるというのは経験することです。どの扉の先に進もうと、何かを経験することはできます。待ち受けているのが最悪の未来でも、それもひとつの経験でしかありません。

努力しないことでしか得られない経験もあります。だから私は努力しない人を否定するつもりはありません。むしろ私のできない経験を積んでいるわけで、ちょっとだけ羨ましく感じることさえあります。ただ、私は私に用意された扉を開いていくだけ。

努力をするのは、できるだけレアな経験をしたいという自分自身の好奇心を満たすため。今日の努力が、いずれ新しい鍵を作り出す可能性がある。だったら努力しないという選択肢はありません。少なくともこれまではそうやってきましたし、これからもそうやっていくつもりです。

著:塚本 亮
¥1,584 (2025/06/24 05:09時点 | Amazon調べ)
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次