理:対価を求めずに自分の役割をまっとうする

15年前に植村花菜さんの「トイレの神様」が流行り、ひねくれ者の私でも心が揺さぶられる素敵な曲。トイレ掃除をしながらそんな曲があったことを思い出したのですが、さすがのひねくれ者。毎日掃除したらべっぴんさんになれるというのは、トイレ掃除をする動機としてはどうなのだろうかと。

これを読んでる方の美しい思い出を否定するわけではありませんが、植村花菜さんのおばあちゃんの優しさをなかったことにしたいわけでもありません。いや、これはどう書いても、敵を作るだけなんですが、自分の中の違和感は言語化しておきたい。

私にとってトイレ掃除は、部屋の掃除とセットであり、基本的に毎日しています。もっとも毎日掃除をするようになるまでは、黒ずみが出たり水垢が溜まったりしていました。それを年に数回掃除する程度でしたが、今は見た目に汚れがなくても掃除しています。


もちろん、べっぴんさんになりたいわけではありません。毎日の歯磨きと同じで、やることが当たり前になっていて、トイレ掃除をするのに深い理由などありません。やらなければあとで面倒になるから。あえて理由を挙げるとするなら、そんな感じでしょうか。

何かを叶えるのに、神様に願いごとをするというのが私にはない感覚のひとつ。見返りを求めるというのも好きではありません。何かを見返りにして行動する。べっぴんさんになるためにトイレ掃除をする。そこに理はなく、願いが叶うわけがないのです。

トイレ掃除を厭わない人は心がべっぴんさんになり、誰からも愛されるようになります。でもべっぴんさんになるためにトイレ掃除をするのはさもしいだけで、心がべっぴんさんになることはありません。ここを勘違いしている人が少なくありません。

まず、神様は願いごとなんて聞いてくれません。神様はそんな暇ではありませんし、そもそも願いごとを叶える力なんてありません。彼ら(彼女ら)はただ見守っているだけ。世の中の理を整えるのが役割であり、個人の願いごとなんて知ったことではありません。

それは私たちも同じことで、それぞれの役割を果たすことが大切なことであり、見返りのために行動するというのは美しくありません。結果的にそれが誰かのためになることもあり、回り回って自分に返ってくることはあります。でもそれはあくまでも結果。

そして自分がやるべきこと、自分の役割をまっとうしていれば、結果は自ずとついてきます。逆にいえば、自分の役割でもないことに手を出して、さらに見返りを求めるというのは愚の骨頂。百歩譲って神様にその力があったとしても、そんな望みは間違いなく叶えてくれません。


トイレの神様という名曲が、そんなテーマとはまったく無縁であることは重々承知しています。ただ、ギブ・アンド・テイクの考えは手放したほうが楽になります。基本的にはギブ・アンド・ギブが私の理想。持っているものはすべて与え、自分にできることは何でもやる。

それで損したら?もうその考え方が間違っています。見返りへの期待がなければ、損することなんてありません。失って空っぽになったら、新しいものを入れればいいだけ。むしろ、これまでにない何かを手にするチャンスであり、それでまた他の誰かの役に立てます。

対価を求めるのは生活のための仕事だけ。生きていくためにそこだけは仕方ありません。だけど、それ以外は対価を求めない。いや、そもそも対価について考えることなく、ただ自分の役割をまっとうするだけでいい。

著:植村 花菜
¥1,100 (2025/07/19 19:02時点 | Amazon調べ)
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次