
広陵高校の甲子園辞退が話題になっていますが、何とも日本人らしい出来事であり、そしてダイナミックに世の中が変わるきっかけになる出来事でもあるのだと私は感じています。イジメがどうとか、スポーツマンシップがどうとかいう話ではなく、今の日本が見事に映しだされているなと。
個人的にはそこまで興味があるわけでもなく、関係者に対して感情的になって何かを感じることもありません。そんなことに思考を使う時間もありませんし、他人に対してあれこれ考えるよりも自分のことをひとつずつ片付けていかなくてはいけませんので。
ただ、今回のことで決定的になったのは、SNSの存在を無視してはいけなくなったということです。もちろん以前からSNSでの声というのは影響力があり、ちょっとしたことで簡単に大問題に発展することも多々ありました。でも、まだどこか他人事という意識があったはずです。
でも、今回のことで流れが完全に変わりました。どんな形であれメディアに出る立場になったり、知名度がある人たちは、品行方正であることが求められ、すべての行動は監視されていると考えなくてはいけなくなる。ひたすら窮屈な時代になってしまいました。
もちろん悪いことをしなければいいだけのことですが、人間は理性だけで生きているわけではありません。急いでいるときに信号無視して道路を渡ってしまうことだってあります。自分を守るために小さな嘘をつくことだってあります。でも、それすら許されなくなる。
いつも監視されている。これがいまの日本を覆っている閉塞感の正体です。その閉塞感により守られる人たちもいて、そのこと自体が悪いとは言いません。でも、閉塞感は成長を妨げ、そして多くの人にとってストレスにもなります。捌け口のないストレスはどこかで必ず爆発します。

かつては「ガス抜き」という言葉が日常生活にもありました。ストレスというガスをどこかで抜かないと爆発するから、被害が広がらない段階で一度ガス(ストレス)を抜いてしまうわけです。でも、今はそれさえも炎上の火種になっており、いずれどこかで暴発します。
勘違いしないで欲しいのですが、私は別に広陵高校を守りたいわけでも、許すべきだとも思っていません。許さないとも思っていませんが。違うレイヤーで行われていることを、客観視しているという表現が合っているかもしれません。自分に関わりないことに許すも許さないもありません。
「違うレイヤー」という考え方を提示してくれたのが、先日少しだけ触れた映画「片思い世界」でした。まだ上映中なのでネタバレにならないように書きますが、自分が違うレイヤーにいると考えてみたところ、いろいろなものがすっきりしました。そして、ずっとそれを望んでいたことに気づきました。
自分のことは誰からも見えていない。自分は誰にも何にも関与できない。それはとても寂しいことのように思えますが、そのレイヤーの中でも人生はあり、泣いたり笑ったり、苦しんだりしながら毎日を過ごしていける。この感覚は私にとって救いになっています。
周りのことを気にしすぎる。それは私の良いところでもあり、悪いところでもあります。だからこそ社会に監視されている感覚に過敏になり、居心地の悪さを覚え、いずれSNSから離れたいとすら考えています。でも、違うレイヤーに存在しているのだと想像すると。そのストレスが消えていきます。
もしかしたら、この思考はメンタル面で良くないものなのかもしれませんが、いまの私には必要なもの。実際には同じレイヤーにいて、関わり合うことができるけど、それができないことを考えると、心の中でオーバーフローしていた何かが止まり、どことなく楽しくなってくるわけです。
