ピラティスの先生が出産のため、今年のお寺のピラティスで参加できるのは今日が最後でした。おそらく春までは受講できないのだなと思うと、それまで体を良い状態に保たなくてはという変な使命感が湧いてきました。
他の先生から学ぶという方法もあるのですが、わたしが最初に習ったのがいまの先生で、代行などで他の先生のレッスンも受けたことがありますが、感覚的にしっくりくる人は他にいません。
ピラティスを体幹トレーニングという位置づけにして教えている先生もいれば、わたしの先生のように「体との対話」として位置づけしている先生もいます。まだピラティスの歴史が浅いこともあり、そのスタイルは千差万別です。
飽きっぽいわたしが、ここまで継続できているのは、間違いなく今の先生に出会えたからで、そして今の走りのスタイルにたどり着いたのはピラティスを始めたからです。
もっとも、わたしの場合はランナーとして特別優れているわけではありませんので、ピラティスが優れているということを証明することはできません。ただ、間違いなく体の感覚は鋭くなっています。
始めた頃は「こんなことに意味があるのかな」と半信半疑でしたが、あれだけひどかった猫背が改善されましたし、いまでは「姿勢がいい人」と言ってくれる人も少なくありません。
女性ランナーの中にはヨガをしている人も多いようですが、わたしはなぜか最初から「ヨガは違うかな」という感覚で、当時誰も知らない「ピラティス」というエクササイズに惹かれました。
男性が受けられるスタジオが少なく、いくつも調べて鎌倉のSUGATAというスタジオにたどり着きました。当時はまだ認知度も低かったため、グループレッスンだったにも関わらず、わたししか受講する人がいない日もありました。
ヨガが違うかなと感じたのは、ただのフィーリングの問題です。ヨガがマラソンに向いているとか向いていないとかいう話ではなく、わたしに向いているかどうかだけの話です。
少し話がそれますが、片岡鶴太郎さんがヨガのスペシャリストとなっています。その体つきを見たときに、わたしがなぜヨガの世界に入ろうとしなかったかを思い出しました。
ヨガの達人たちの体つきは、わたしの美的感覚からすると美しくありません。
こんな体になるまで鍛えることはすごいことだとは思います。その大変さは想像を絶するものなのでしょう。そして、その体があるから健康に長生きできるのでしょう。
ただ、わたしはそのような体になりたいとは思いませんでした。これは人によっては反対で、「あんな体を手に入れたい」となるのかもしれません。これは何を美しいと思うかという問題です。
わたしはそこに憧れを感じなかっただけのことです。
じゃあなぜピラティスを選んだのか。当時はまだ「体幹」という言葉すら知られているかどうかというときです。こういう言い方をするのはズルいと思いますが、それは運命だったのではないかと思います。
別に体幹なんてしっかりしていなくても、フルマラソンやウルトラマラソンくらいなら完走することができます。実際に市民ランナーの多くが、体幹なんて気にせずにフルマラソンを走っていますし、わたしよりも速くゴールします。
でも、そういう人たちに4日間で甲州街道を走ると言うと「自分にはとてもじゃないけどできない」と言います。でもわたしは、1日60㎞なら毎日でも走れると信じています。これまで何度もそれを証明してきました。
長く走っても疲れにくい体を手にしているという意味で、わたしにとって体幹はとても重要なものです。ケガをしないためのバランス感覚なども、体に軸が通っているから手に入れることができました。
そういう体を手にして、こうやって情報発信をしている。これらはすべて、ピラティスに出会ったからです。わたしの人生で最も大きな選択だったかもしれません。
今は月1回のレッスン以外では、ほとんどピラティスを行っていません。ある程度の軸が出来たことで、走ることが体幹トレーニングに直結しているためです。それでも自分の体のメンテナンスのために月1回習いに行っています。
習いに行ってますが、レッスン中に姿勢などで注意をされることもほとんどなくなりました。
まだまだ未熟だとは思うものの、ランニングとピラティスの融合は想像以上にうまくいっているように感じます。ただこれから半年は、姿勢の見直しなどはすべて自分で行わなくてはいけません。
先生は復帰したときに、あまりにひどい動きになっていてがっかりさせないためにも、むしろ半年間でさらに成長しなくては。そんなことを考えながら、区切りのレッスンを受けた1日でした。
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