映画「エルネスト」を観終えて1日が経過しても、場面の一つひとつを思い出すだけで、心を全て支配されてしまいます。グッと胸が締め付けられ、心の深いところにまで引きずり込まれます。
わたしはまだこの映画の魅力について、正しく語るだけの文章力がなく、時代背景に関する知識も不足しています。でも間違いなく言えるのは、これほど心が揺さぶられた映画はかつてなかったということです。
チェ・ゲバラのこともフィデル・カストロのことも、ほとんど知らない状態で、キューバを訪れた17年前。当時、作家の村上龍さんがキューバのことばかり語るので、「それならば自分の目で見てみよう」と思い、会社の夏休みを利用してキューバに向かいました。
いま思えばかなりもったいないことをしました。キューバの歴史も知らず、ただ興味本位で訪れた社会主義国。もっとも白紙の状態だったからこそ学べたこと、感じられたことがたくさんありましたので、後悔はしていません。
ただ、あの国の人の笑顔の裏側にある歴史を知っていれば、もう少し深くキューバの人たちに近づけたような気もします。タラレバを言っても仕方ありませんが。
映画が上映され、開始して数十秒で、なぜかわたしの目頭が熱くなるのを感じました。冒頭のキューバ革命直後の写真。自由を手にした彼らの喜びの表情と、わたしが出会ったキューバ人たちの表情が重なります。
この物語は、チェ・ゲバラと共にボリビアでゲリラ戦を行い祖国で革命を成し遂げようとした、日系2世フレディ前村の生涯を描いたものです。
この映画の副題は「もう一人のゲバラ」となっているように、フレディ前村はチェ・ゲバラよりエルネストの名前を託されます。なぜ託されたのかというのは、映画で観てもらいたいところですが、おそらくもうこの映画が日本国内で上映されることはないのでしょう。
わたしも1度見逃したのですが、厚木のミニシアター系映画館で、上映最終日前日になんとか観ることができました。
映画の中では、いくつかの心に突き刺さる印象的なセリフがあります。「私は怒っているのだ。憎しみとは違う。憎しみから始まる戦いは、勝てない」これもその言葉のひとつです。
彼はいつも怒っていました。自分自身に対して。
キューバ革命を起こした相手はアメリカの傀儡政権で、キューバ革命後にアメリカを訪問したフィデル・カストロは、ひどい冷遇を受けることになります。
フィデル・カストロは「自分は共産主義者ではない」と伝え、アメリカと友好関係を結ぼうとしたのに、アメリカは旧キューバ政権から続く利権がらみで、フィデル・カストロを相手にしませんでした。
それに怒ったフィデル・カストロはロシアと手を結び、キューバを社会主義国家に向けて舵を切りました。アメリカは自らの愚行によりキューバを敵に回し、フィデル・カストロやチェ・ゲバラの怒りの源になりました。
ただ、そこに憎しみはないのでしょう。怒りはあるが憎しみはない。わたしはまだ、その本当の意味を理解できていません。憎しみは怒りからくるものですが、怒りを憎しみに昇華せずに持ち続ける。そんなことが可能なのでしょうか?
でもそれを実現したからこそ、彼はキューバ革命を成功させました。
怒りとはきっと、相手に向けるものではなく、自分自身に向けるものなのかもしれません。納得のできない出来事に対して、それをなんとか出来ない自分への腹立たしさや無力感。それを受け入れるのではなく、反発しようという気持ち。それが「怒り」なのかもしれません。
彼はこうも言いました「日本人はなぜ怒らないのか」。広島の原爆資料館を見学中の言葉でした。こんなにまでされて、なぜアメリカにへつらうのか。なぜキューバと国交を結んでくれないのか。気持ちたちの心に「怒り」はないのかと。
革命後に医学を学ぶためにキューバへと渡ったフレディ前村は、日本人の血が流れている日系2世らしい行動を何度も見せます。日本人の父親に厳しく育てられた影響が大きいのでしょう。曲がったことが嫌いで、純粋でまっすぐな若者。
勤勉であり、仲間を大切にするフレディ前村。
医者としてボリビアの人たちを救うためにキューバに留学したものの、軍事政権により祖国の人たちが苦しんでいるのを知り、彼はボリビアの開放のための活動に加わります。
チェ・ゲバラはまっすぐな彼の姿に、昔の自分を重ねたのかもしれません。そして自分自身の名前を彼に託しました。きっと、フレディ前村なら自分のように祖国を開放できると考えたのでしょう。
ただ、史実にあるように、ボリビアでのゲリラ活動は失敗に終わり、ボリビアの人たちが自由を手にする前にチェ・ゲバラもフレディ前村も処刑されてしまいます。
「見果てぬ夢を見て、何が悪い!」
フレディ前村が最後に口にした言葉です。
この言葉もわたしの胸に突き刺さっています。黙ってキューバに残り、愛する人と平和に暮らす道もあったのに、彼はそれを選ばずに、あえて険しい道を選びました。
革命は失敗しましたので、ある意味では彼の選択は間違っていたのでしょう。
でも男には見果てない夢だと分かっていても、全力で追いかけ続けなくてはいけない夢があります。それを押し殺して生きていく人生に意味はない。わたしはそんな心を持った男を愛さずにはいられません。
成功する確率がほとんどゼロであっても、自分の心が動くならそれに従うこと。それが生きるということです。
この映画を観ると「お前は本当に自分のやりたいことをやって生きているのか」そう問われているような気持ちになります。成功するかどうかは問題ではなく、自分で選んだ道をまっすぐに生きる。
そういう生き方にわたしは美しさを感じます。
映画の中で、フレディ前村がフィデル・カストロに「いま勉強以外に何をすればいい?」と質問します。それに対して、フィデル・カストロは「そんなものは人に聞くものではない。心が教えてくれる」と答えます。
この映画は宝石のような強くて美しい言葉が詰め込まれています。
自分の心に従い、エルネストの名前を背負っての祖国でゲリラ活動を行ったフレディ前村。わたしにも同じような生き方ができるだろうか?いやしなくてはいけない。そんな思いに支配されています。
もちろん、今の時代に革命戦士になって戦いながら生きていくなんてことは考えられません。ただ、人生で何度もやってくる運命の分かれ道。そこで目先の利益ではなく、自分の志を優先させたフレディ前村の生き方は、わたしにとっては大きな道標になります。
エルネスト。やっぱり上手にまとめることができませんでした。気持ちが昂りすぎて、冷静な言葉で大事なことをきちんと語り切ることができませんでした。ただ、本当に大切なものはわたしの心の中にしっかりと根付いています。
わたしにエルネストという名前をくれる人はいませんし、革命戦士になる未来もありません。それでも少なくとも心はエルネストであろうと思います。チェ・ゲバラのように常に怒りを持ち、フレディ前村のように真っ直ぐに立つ。
それで苦しんだり、悲しんだりすることもあるかもしれません。それでも見果てぬ夢を諦めない男でありたい。映画を観終えたときから、そんな想いが小さな種として、わたしの心に植え付けられた気がします。
著者:マリー前村=ウルタード,エクトル・ソラーレス=前村
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