連日、オリンピックの話題がにぎやかだ。スポーツには常勝という言葉は漫画の世界にしかない。最も強いものが勝つのではなく、勝ったものが最も強く最も優れている。だから浅田真央のSPでのミスだって当然ありうることだし、誰もが予想していなかった人がメダルを取ったりもする。もちろん番狂わせなく、下馬評通りに金メダルを取る人もいる。スポーツ観戦の面白さはそこにある。マスコミが大会前から「今回はメダル何個」みたいに言うのも額面通りに受け取る必要もない。そんなものプロ野球シーズン前の優勝予想となんら変わらない。
結果を出せなかった選手を批判する人がいる。少なくともこの国では言論の自由が認められているので、そういう批判について苦情を申し立てるつもりもないけど、日本人としてそういうのは美しくないと思う。じゃあお前の言う日本人らしさってなんだよと言われると言葉が見つからないのだが、少なくとも机上の空論を用いて選手を批判するのは違うと思う。
欧米では批判することがひとつの文化になっている。たとえばサッカーのサポーターと呼ばれる人たちは、自分の応援するチームの成績が自分の生活と切り離せない状態にある。だからチームが勝てないと監督や会長の解任を迫ったりする。批判することが自己主張につながる。でもこの国で行われている批判はただのはけ口でしかない。ただただ美しくない。
安部首相が大雪の日に天ぷらを食べただのくだらないことで批判されていたが、その批判も美しくない。ただ、この場合は安部首相のとった行動も日本人的な美学から離れている。天ぷらを食べたことが問題なのではない。そのタイミングで天ぷらを食べていたことが美しくない。そして、その後の対応もどうかと思う。政治家はとにかく謝らない。一言「すまん」と言えば済むことなのに、頑なに謝ることを嫌う。
オリンピック選手が「期待していただいたのに結果を出せなくてすみません」というコメントをすることがある。これは本当に謝るべきことなのだろうかと違和感を感じる。大会に向けての調整を怠ったというのならわからなくもない。そうではなく、全力を尽くして結果が出なかったのだからそれは仕方がないこと。相手があってのことなので、自分がどれだけ全力を出そうとも勝てない時はあるものなのだから。
そもそもあれは誰に対して謝っているのだろう。声援を送ってくれた人、コーチやチームメイトだろうか。それともこれまで支援してくれた人たちだろうか。少なくともわたしは謝ってもらう覚えはない。
謝ることで気持ちが楽になるならそれはそれでいい。少なくともオリンピックごときで第二の円谷幸吉を出してはいけない。勝てなかったことの苦しさから命を落とすようなプレッシャーを周りが与えるべきではない。今回の浅田真央のように、勝てなくても全力を尽くした人を褒め称えられる国でありたい。スポーツとの向き合い方ももはや「勝てばいい」という時代ではなくなってきたのだ。
間違っても結果がでなかったことを責めてはいけない。そういう人間になってはいけない。一緒になって涙を流す必要はないが、彼らが批判されるような理由はどこにもないのだから。
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