会社を辞めたのが5年前の8月末。あと1ヶ月で個人事業主歴が5年になります。個人事業主の廃業率は5年で75%程度。生き残るのは4人に1人ですので、4倍の難関をなんとか乗り切れそうなところまでやってきました。その話はまた別にするとしてスーツを5年も着ていません。
礼服は1回だけ着ていますが、スーツを着る機会もまったくなく、そろそろ処分してもいいのではないかと思い始めています。実際に捨てるかどうかは別として、フリーランスにスーツが必要かどうかについて考えてみようかと思います。
取材や打ち合わせはジャケットのみ
ライターという職業は取材がそこそこあります。企業に打ち合わせに行くこともありますが、いずれもスーツは必要ありません。もちろんワイシャツは持っています。ジャケットも1枚だけ持っています。でもネクタイをすることはありません。
スーツ姿で取材をしている人なんてほとんどおらず、清潔感があればラフな格好が許される業界というのもありますが、少なくとも仕事をするうえでスーツが必要かどうか迷うシーンすらありません。クールビズが定着してから、以前ほどはノーネクタイを責める風潮はなくなっています。
まずありえないことですが、官公庁に呼ばれたところでスーツを着ることもないのでしょう。スーツを着るというのは礼儀みたいなところがありますが、それは社会人としての礼儀というよりは、会社員としての礼儀であり、会社の看板があるから着ていたのでしょう。
もっとも、スーツというのは制服のようなもので、着ておけば間違いない服装のひとつです。定形の服を着ておけばセンスを問われることもありませんし、毎朝何を着るかで迷うこともありません。そして、そういうスタイルに中高6年間かけて育てられたわけで、スーツは楽ではあります。
スーツが似合う生き方と似合わない生き方
わたしはスーツが好きではありませんが、スーツが似合っている人を見るのは好きです。社会人1年目の若手はスーツ姿がまだ自分のものになっていないので、スーツだけが浮いているような感じになりがちです。そういうアンバランスさも嫌いじゃありません。
ところが、毎日のように着ていると徐々にスーツ姿が板についてきます。仕事ができる人ほど、スーツ姿がかっこよくなります。スーツは着れば着るほど自分自身に馴染んでいくのでしょう。そういう意味では、仕事ができないというのもスーツ姿に現れます。
スーツは生き方そのものが出てしまう服だと認識しています。そうなってくると、わたしは絶望的にスーツが似合いません。会社員時代はエンジニアだったのもあって、スーツで通勤していたのは三島のオムロンに派遣されていた1年間だけです。
その期間を除けば15年の社会人経験で、おそらく50回もスーツを着たことはないかもしれません。そしてフリーランスになってからは1回も着ていない。おそらくわたしの人生において、スーツは必要ではないものという位置づけなのでしょう。
スーツは知性的で威厳があるように見えます。でも実際に知性や威厳があるかというとそれは別で結局は外見だけの話です。人は見た目が9割なんて言う人もいるので外見は大事です。でもフリーランスは結局中身がすべてで、見た目というのも醸し出す雰囲気が重視されます。
スーツよりも中身が問われる。そうなってくると、あえてスーツを着る必要はないのでしょう。むしろ無個性になることがマイナスであり、個性を出すために、スーツ以外でビジネスの場に出ていく必要があるのかもしれません。
将来的に必要になるシーンが思い浮かばない
それではスーツを手放してもいいか。おそらく手放しても困ることはありません。結婚式に呼ばれるようなことがあれば、ちょっと堅苦しいですが礼服を着ればいいだけですし、もし就職活動をするような未来があるなら、そのときに買えばいい。
ドレスコードのあるようなお店でデートする未来もないでしょうし、そういうパーティーに呼ばれるほどの人脈もありません。
少なくとも日本の夏にスーツを着ることはなく、冬場もジャケットが1枚あればなんとかなります。ネクタイは夏も冬もなくても問題ありません。もしそれを問題視するような人がいても、そのような人からの仕事を請けなければいいだけのことです。
スーツによって権威を見せる必要もなく、虚勢を張る必要もない。そういう立場にわたしはいます。独立したばかりのころは、ライターの中でも底辺に位置していたのでスーツの出番があるかもしれないと思っていましたが、5年も働けば生身の自分で勝負できる自信もついてきました。
もし独立したばかりの人に「スーツは持ってたほうがいいですか?」と聞かれたら、「とりあえず持っておいたほうが安心だけど、きっと使うことはないと思う」と答えるでしょう。安心するためだけにクローゼットに吊るしてあるアイテムでしかなかったのが5年間の事実です。
スーツが似合う人生へのあこがれとの決別
先に書いていますが、スーツが似合う人を見るのが好きです。どことなくあこがれもあります。スーツが似合う男になってブランド時計を腕に巻き、ビジネスの場でバリバリ働いて、世界中を駆け回りたい。ほとんど妄想でしかありませんが、44歳になってもそういう姿にあこがれます。
UberEatsの配達でも、ときどきスーツが似合う人に配達することがあります。やっぱりカッコいいなと思いますし、汗だくで安物のポロシャツを着て配達をしている自分との格差を実感させられます。どちらがいいとか悪いとかという話ではなく、そこには明確な格差があります。
でも立場が逆だったとき、わたしはきっとポロシャツでデリバリーをしている男を見て「こういう自由さにあこがれる」なんて言ったりするのでしょう。実際にUberEatsの配達員を見て、面白そうと感じたから始めたわけですから。
あこがれというのは、わたしの場合にはないものねだりなのかもしれません。あこがれるのは好きにすればいいけど、あれもこれも手にしたいという願望は手放したほうがいい。少なくともスーツが似合う人生はもう手に入りませんし、そこに自分の本当に望むものはありません。
5年間も自由に生きてきたわけです。もうスーツと決別してもいいのかもしれません。人生万事塞翁が馬ですので、また必要になる日が来ないともいえませんが、それはそのとき考えればいい。
ただ、自分のスタイルは確立していかなくてはいけないなとは思います。先日もUberEatsでの服装について書きましたが、自分らしさを表現できる服について考えてもいい時期に来たのかなと。もちろん磨くべきは中身ですが、中身が伝わりやすい服というのがきっとあります。
わたしの場合、それがスーツではないことだけは確かです。