映画「線は、僕を描く」を観てきました【足踏みを終わらせるとき】

久しぶりに映画を観てきました。「線は、僕を描く」がなぜか気になって。でも、始まって1分もしないうちに既視感があって、すぐに気づきました。このストーリーを知っているということに。コミックで読んだことがあったわけです(小説ではなく)。本や漫画を読むときに、タイトルを気にしないので、まったく気づかず。

ものすごく泣ける映画らしいんですが、ストーリーを知ってるとですね、流石にうるっとしても泣けません。別に泣きたかったわけではないので別にいいのですが、基本的に同じ道を歩みたくないタイプなので、話の展開がわかってしまうと物語に没頭できず、ちょっと残念。

でも、映画も小説も出会うときに出会うもの。このタイミングで観たということは、偶然ではなく必然だったのでしょう。いや、誤解を恐れずに書けば、しっかりと響くところはありました。それも主人公に必要だったものが、ピンポイントで私に欠けていたもので、大切なことを思い出させてもらえた気がします。

細かいことはネタバレになるので書きませんが、ここ最近は知らないうちに目先のことばかりを追っていて、本当に大切なことを見落としていたんだなと。それは普段の仕事もそうだし、ランニングに関してもそう。気付かず、いつの間にか視野がだいぶ狭くなっていたなと。

もう少しで47歳になります。もうそろそろ不惑であるべきで、自分の色とか自分の形とかを定めていくべき年齢です。いや、自然とそうなる年齢なのですが、フリーランスなんぞしていると、年齢相応というものが見えなくなり、いつまでも若いつもりでいてしまいがちり

もう与えてもらうのではなく、与える側の年齢になっているはずなのに、いつまでもプレイヤーでいようとしてしまう。それはそれでいいのですが、精神的にもう少し正しい歳の重ね方をしたほうがいいのだろうなとは思います。もう私は主人公の年齢ではなく、脇役の年齢なのですから。

「線は、僕を描く」の中で、主人公が何度も墨を磨るシーンが出てきます。何度やっても先生に「もう一度」と言われるのですが、私はもう「もう一度」という側の人間。そろそろそれを受け入れなくてはいけません。それなのに、まだ墨を磨る側の意識が抜けないでいます。

それも含めて私なので、無理に何かを変える必要はないのですが、まだ何者でもない自分に焦りも感じています。特別な人間になれるとは思ってもいませんし、なろうとも思いません。でも、そろそろどこかに辿りつきたいという思いはあります。ただ、見渡す限りの水平線で未来が見えていない。

いわて盛岡シティマラソンの後に、盛岡で暮らす私の大切な人と久しぶりに再開したのですが、最初に出会ってから20年も経つという話をしました。そのとき私は、自分のことを「ずっと足踏みしている」と表現しました。それは本心なのですが、20年も前に進めてないわけで、過去のあれこれを引き摺るのはもういいのかなと。

40年も生きていれば、墓場まで持っていかなくてはいけないことの、一つや二つくらい誰にでもあるものです(ありますよね?)。でもそれが引力になって、前に進むのを諦めるのは違うかなと、ようやく思えてきたのが最近のこと。そこで「線は、僕を描く」の映画を観たのはきっと必然。

もう、ここからは自分らしく人生をデザインしていこうかなと。これまでだって自由にやってきましたが、心の奥に引っかかっているものがありました。「自分だけが楽しんでいいのだろうか」とか。でも、このタイミングでこの映画に出会えたのが必然なら、それはもう「やる」しか選択肢はありません。

自分の生き方やこれからの方向性もそう。ここからは迷わず突き進むだけです。それで私が何者かになれるのかどうかは分かりませんが、この映画からヒントはもらいました。そのヒントを活かせるかどうかは自分次第。それでもやるしかありません、それが私の選んだ道ですから。

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