
腰痛はひどいものの、冷静に考えたら走れないこともないかなと思う程度になっています。回復したというよりも痛みを抱えていることに慣れただけなんですが。基本的に腹圧をかけておけば激痛にならないことがわかったので、気を抜かなければきっとランニングもできます。
もちろん走りませんけどね。腹圧をかけたり、集中して脱力したりしないと靴下を履けないくらいの状態ですから。さらっと書きましたが、腹圧をかけるのも、脱力できるのも、全部ピラティスを学んだことでできるようになったこと。
ピラティスをしていなければ、この腰痛に耐えられなかっただけでなく、そもそもランナーとしても特筆すべきものを持っておらず、会社を辞めてフリーランスになることも……いや、それは関係ないか。ランニング関係の仕事をしているのはピラティスのおかげですが。
ピラティスとアサイーだけは、ランナーなのに導入しない人の気持がわからないと思うくらい、どちらも私のランナーとしての立ち位置を大きく変えてくれました。いまコンディションがいまいちなのは、アサイーのない生活を3ヶ月もしているから。血液がきっと足りていません。
それを言えば玄米も足りてないですね。そもそもご飯をほとんど炊いていないので、今日は久しぶりに玄米を炊くとしましょう。忙しかったというのもあって、いろいろ神奈川での生活とはかけ離れたことをしていたようで、これでは体がおかしくなって当然です。
実は昨日の朝にヨーグルトを買いにセブンイレブンまで歩いたのですが、普通に歩いているだけなのに左足を攣りかけました。自分が思っている以上に満身創痍なのかもしれません。若くないということを痛感しています。
ただ老いを簡単に受け入れるほど素直にできていないので、まだまだ体には負担をかけてやろうとは思います。この夏もどこかを旅ランしたいですしね。ただ昨年の東北横断みたいにインパクトのあるコースって意外と少ないんですよ。
こういう旅ランができるのも、自分の体と向き合う習慣がついたからだと思っています。自分の体と向き合えば自分の限界がどこにあるかが見えてきます。限界が見えれば、新しいチャレンジもしやすくなります。限界の一寸先にゴールを置けばいいだけですから。
自分の体と向き合うということをせずに、無謀な挑戦をする人がいます。私はそれをすごいとは思いませんし、そのような挑戦も挑戦する人にも興味がありません。「できるかどうかわからない」。そんなギャンブル的な生き方はしていないので。
私はいつも「自分にできることしかしない」と言い続けていますが、それは自分の許容範囲を超えない範囲内で行動するという意味と、限界からほんの少しだけ飛び出すという意味があります。がんばって背伸びすればなんとか触れられるかどうかくらい。
どうあがいたって触れることができない。そんな挑戦は自分への裏切りだと思います。自分の体と向き合うということを10年以上継続してきた自分を裏切る行為。もちろん自分の価値観での話なので、他の人がそうでなくても別に構いません。
どんなことでも10年続けてみる。それが理想です。石の上にも三年と言いますが、3年では何も習得できませんから。もっとも、継続はあまり得意ではない私が言っても説得力がありませんけどね。私が続けられているものなんてほとんどありませんから。