少し前に猫ひろしのマラソンオリンピック挑戦について書きましたが、実現する可能性が高くなるに連れて「反対」の声が目につくようになってきたので、少しだけ書いておきます。
彼がカンボジアに帰化してカンボジア代表となったことについて、「カンボジア人に失礼だ」というコメントが多いように感じますが、そういう人はサッカー日本代表に帰化した外国人が入ったとき「日本人に失礼だ」って怒っていました?
まぁそれはちょっとした詭弁なんですが、そもそもですよ、オリンピックとナショナリズムということに対しての議論もせずに失礼だとか、そうでないとか言い合っても、それはただの感情論でしかありません。
オリンピックは各国の優れたスポーツ選手を送り出し、そこで競い合いをすることで、世界で最も優れているアスリートを決める大会です。
いつから、なぜなのかはわかりませんがオリンピックでは、1日の競技が終わった後に「各国のメダル獲得状況」を集計し発表しています。
この発表って本当に必要?わたしはずっと疑問に感じていました。北島康介さんがメダルを取ったことが、日本がメダルを取ったということになる。その感覚がわかりません。
「国の誇りを胸に」という言葉もしばしば出てきますが、少なくともわたしは40年生きていきて一度も「国の誇りを胸に」なんて考えたことありません。
オリンピックは優れた個人の競い合いを楽しむ場であり、国籍なんてその選手についてまわる、その他のどうでもいい情報のひとつにすぎません。
「国の誇り」という考え方は間違ったナショナリズム以外の何物でもありません。
わたしたちは国のために生きているのではありません。
いや国のために生きている人もいるのでしょう。日本という国を愛してやまない人たちがいることを否定するつもりはありません。ただそれは個人の思いであって他人に押し付けていいものではありません。
それが極端にまで行ったとき「非国民」という言葉まで生まれます。
そもそも国ってなんですか?
その議論もこの国ではまともにされることもありません。
国籍を変えてオリンピックに出ることを批判する人に聞きたい。
国とは何ですか?
国の誇りとはなんですか?
それとオリンピックに出ることと何の関係があるのですか?
歴史がどれだけ流れようとも、オリンピックなんてしょせんお金持ちの暇つぶしでしかありません。 オリンピックを高貴なものとして扱うことがそもそも間違っていませんか?
国とは何か、オリンピックとは何かという議論をすっ飛ばして感情論で語るから言葉が咬み合わない。
猫ひろしを批判するのも個人の自由です。
ただ批判する人に忠告しておきますが、ダブルスタンダードにだけはならないようにしてください。
世界中の帰化選手に対して異議を唱え、高校野球の越境入学を批判し、夢や目標のために地元を離れ上京する若者を罵ればいい。
まぁこれも詭弁。
どんな手を使ってでも目標を達成しようとする欲望は人間を人間らしくしている要素のひとつです。それが向上心になり成長へとつながっていく。
そうやって夢を掴んだ選手と、オリンピックでメダルを取ったにも関わらず罪を犯して法に裁かれる選手。どっちのほうが人間として好きになれる?
それだけのこと。
日本人としての帰属意識とか、国のプライドとかそんなものはただの幻想でしかありません。
そんな幻想のナショナリズムを煽ってどうしたい?
北島康介さんが金メダルと取ろうと、澤穂希さんがFIFAのバロンドールを取っても、別にあなたやわたしの優劣には何の関係もありません。そこに生まれる唯一のいいことは「日本人でもやればできる」という思いが湧くぐらいでしょうか。
もう一度繰り返しますが、選手は何も国を背負ってオリンピックに出るわけではありません。自分の強さ、自分の積み重ねてきたものが正しかったことを証明するためにオリンピックに出るのです。
自分を支えてれる人たちを裏切らないために、自分を裏切らなためにベストパフォーマンスを尽くす。
そこに国籍なんて関係ありません。
きれいごとすぎる?
オリンピックできれいごとを言わなくて、どこできれいごとを言えばいい?
今回の件が議論になることはいいことだと、わたしは思います。ただ、心のない言葉のぶつけあいの先には何もありません。
せっかくなので、これを機会に「国とは何なのか?」について考えてみてはどうでしょう。
この国には十分議論されることなくあたりまえに使われている言葉や習慣が無数にあります。その1つひとつを共通認識としてまとめる作業が必要かもしれません。
なぜ横領がダメなのか、なぜ嘘をついてはいけないのか、結婚とは何なのか。そういう議論抜きにマスコミが煽るだけ煽っているのが現状です。そして多くの人が思考停止しています。
ダメなものはダメ。
そうではなく、ダメな理由をきちんと議論するところからはじめませんか。
スポンサーリンク
コメント