昨日のレースレポートにも書いたように、東京タワー階段競争では力を出し切ることなく走り終えてしまいました。失敗なのは、やはりレースに意味を持たせなかったことに尽きます。
「役に立たないことはしないこと」稀代の剣豪である宮本武蔵の言葉です。
成長をしたいのなら、道を極めたいのなら無駄なことをしている時間はありません。一つひとつの言動に意味をもたせること。意味を説明できないことはしない。出場する理由を明確にできないなら走るべきではない。
朝鍛夕練。
実は同じようなことを過去に何度が行っています。はっきりと覚えているのは京都マラソンです。メインとしていたレースの翌週に開催され、きちんと走れるわけもなく、冷たい雨だったのもあり裸足という選択肢もない。
走る目的がないままスタートし、ただただ退屈さに苦しむだけの42.195km。友だちの母親がゴールで待っていてくれていなかったら、リタイアしていたかもしれません。
何も考えずに走ってみたいという重いだけでエントリーしたレース。裸足で走れば、それだけで退屈さはなくなり、楽しいものになりますが、シューズを履いて目的なく走るレースほと面白くないものはありません。
別にわたしは稀代のランナーになりたいわけではありませんが、心のどこかに武士の心のようなものを持っています。実際には足軽にもなれないような平凡な存在ですが、心だけでも武士でありたい。
侍ではなく武士です。誰かに仕えるのではなく武をもって生きる男でありたい。武道に通じないわたしにとって武とは走ることにあたりますが。どこかに属するのではなく自分なりの走道を突き進む。
その過程で、不要なものはどんどん削ぎ落としていく。かつてはシューズすらも不要なものだと思っていた時期もありましたが、今はシューズも自分の道を行く上で必要な道具のひとつです。
日々の練習も道の先へと通じていると信じています。だからレースもそうあるべきです。自分の理想とする走りを表現する場。タイムや順位はその表現方法のひとつでしかありません。
どういう表現をしたいのか、どういう自分でありたいのかをイメージできない大会なら、鍛錬に時間を割くべきです。他の人のことは知りませんが、少なくともわたしにとっては。
東京タワー階段競争に参加しないほうが良かったというのではなく、参加するからにはきちんと自分なりの意義を持たせるべきだったという反省です。
それは当日になって「何分で走る」といったものではなく、513段の階段を駆け上がるために必要な準備をしっかりと行って当日を迎えるという意味でもあります。
何度も言いますが、タイムや順位は関係ありません。自分が満足して帰路につけるかどうかがすべてです。そして、満足できるかどうかは、レースで何かを得られたかどうかにかかっています。
なのに何の構えなしにレースに挑んでしまったわけです。20代30代前半の若者ならいざしらず、いい歳をした男のするようなことではありません。不完全燃焼はなるべきしてなった結果です。
とはいえ覆水は盆に返りません。この経験をどう活かすか、どう次に活かすのかが重要です。
次のレースは今のところ天童ラ・フランスマラソンで、その次がハルカススカイラン、花蓮太平洋縦谷マラソンへと続きます。例年よりも出場するレースを絞っていますので、1レースの重みが違います。
無駄なレースにしないこと。
もちろん、日々の練習の1歩だって意味をもたせること。小さな変化にも気づくこと。やるべきことはいくつもあります。道を進むというのはそういうこと。別に誰かに命令されているわけではなく自分が決めた道。
こうやって、たまに道をそれてしまうこともありますが、それも糧にして次の一歩に繋げます。
コメント