少し前に朝日新聞デジタルの論座で、「人々を惑わせた新型コロナ禍でのジョギング なぜ、誤解が広がったのか」といった記事が書かれました。TwitterやFacebookなどでも拡散され「ほれみたことか」と一部のランナーが盛り上がっていましたが、正直なところこの図式がイラッとします。
なぜメディアや医師などの権威の言葉をすぐに鵜呑みにするのか、なぜ権威が言わないと自分で判断できないのか、15年前くらいのわたしだったら、それについて延々に苛立った記事を書いていたかと思います。44年も生きていれば人間丸くなるものです。ただイラッとしているので、まぁその話くらいはさせてください。
わたしのスタンスはランニングでマスクはしない
まず自分の旗色を示しておきます。わたしは新型コロナウイルスの感染拡大が始まった段階から基本的に考え方は一貫しています。
- ランニング中のマスクはしない
- エビデンスのない情報は無視
- 緊急事態宣言中は朝ラン以外は走らない
これはずっと変わらずです。マスクをして走らないのは単純にマスクが嫌いだから。それ以上でもそれ以下でもありません。あんなもの付けて走るくらいなら、走らないほうがマシだと思っているから、これまで1度も着用して走っていません。記事を書くためにネックカバーを着けて走ったことはありますが。
ランニングに関するマスクの情報がいろいろと出てきましたが。わたしの感覚でどれも信用するに値しないものだったのでひとつも信じていません。信用というのは理論的に正しいということではなく、理論と同じことが現実に起きているかどうかということ。
マスクをしたランナーからの感染あったのか。それともなかったのか。そんなデータはひとつもないので、わたしの結論は「わからない」です。そしてマナーとして必要なら、BUFFなりマスクなり臨機応変に着用すればいいと言ってきました。
そして、わからないから緊急事態宣言が出ている間は、基本的に朝ランしかしていません。人がほとんどいない5時台のランニング。これは新型コロナウイルスに関係なくずっとやっていたもので、それ以降の時間はレビュー記事を書くために1回走っただけです。
まぁマスクをして走りたくなかったのもありますが、触らぬ神に祟りなしと昔の人が教えてくれていますので、それに従っただけです。どうでもいいことでイライラしたくなかったので、夕方ランをやめていました。
メディアや権威を信じるから右往左往する
信じられるのは自分だけだと思っています。それは仲間を信じるとかそういう次元の話ではなく、結局自分でコントロールできるのは自分だけで、その他の人たちをコントロールできることはできないので、どんなことが起きてもおかしくないと思っています。
例えばどこかから圧力がかかったり、依頼を受けたりして真実とは違うことをメディアや識者が発信することがあります。メディアが明らかにおかしな発信を繰り返したことをもう忘れてしまった人もいるようですが、メディアはメディアが守りたい何かのために発信します。
それはわたしがわたしの守りたい何かのために発信しているのと同じで、常に公平中立なメディアなんてありません。人類の長い歴史の中でもメディアはひとつの権力であり、それぞれに思惑があります。だからメディアがエビデンスもなしに発信していることは一切信じませんし、情報を拡散することもありません。
権威だって同じです。ある大学の教授が「マスクなんてしなくても大丈夫」と言ったとして、でもその教授がどこかのメーカーと繋がっていて共同研究などもしていて、メーカーから発言を頼まれたのだとしたらどうでしょう?
自分が背景も含めてよく知っている人が言ったことなら信じるかもしれませんが、どこかの偉い教授が言ったから信じるというのは、メディアが「納豆が免疫力を高めるらしい」と発信したらすぐに納豆を買いに行くような浅ましさと変わりありません。
そんな不確かなものを勝手に正しい情報と思い込んでいる。もちろん思い込むのは自由です。でも「よくわからないけど偉い人が言ってるから正しい」という思考停止はわたしが最も嫌いことであり、生きることを放棄していることだとすら思っています。
なぜ自分で考えようとしないのか
この手のことは今回だけの話ではありません。もう何十年も前から疑問に感じていたことで、わたしはなぜ多くの人が、メディアや権威の言うことを鵜呑みにするのか本当に理解できません。自分が正しいとかそういうことではなく、どうして無防備に受け入れることができるのか、本当にその理由を知りたい。
いや、こうやって人を信じないから44歳にもなって独り身なわけなのですが、どうやったら知らない人を信じられるのか不思議で仕方ないんです。
じゃあお前は友人や仲間、恋人を信じてこなかったのかと思うかもしれませんが、自分に直接関わる人に関しては、信じるというよりも「騙されてもいい」と思って接しています。ちょっと感じ悪い人みたいになってますが、まぁ隠しても仕方ないことなので。
どんなに仲のいい人でも、100%意見が一致することなんてありません。一致しないからこそ一緒にいるわけです。自分とは違う考えの人がいて、「そういう考え方もあるか」と思えたり、違う視点からの考え方が参考になったり。でもそれは身近な人だからこそ。
どこの誰が書いたかわからないメディア記事や、教授や先生と呼ばれる人たちの発言。100歩譲って現実に即したエビデンスがあれば信じれます(だからわたしは数字が出ている論文をよく読みます)。明確な根拠を数字で示せていない情報は頭の片隅には置いておきますが、基本的には使うことはありません。
自分で考えて自分で判断する。できないことは「わからない」として触れないようにする。そうやって44年間生きてきました(幼少期は違うかもしれません)。だから、なぜ多くのランナーがマスクをするかどうかで迷っているのかが理解できません。
マスクが必要ならすればいいし必要ないならしなければいい
「結局走るときにマスクをするべきなのか、外すべきなのか」をタイトルとしましたが、結論としては「そんなこと自分で考えろ」です。どこの誰が言ったかわからないものを錦の御旗に掲げるのはみっともないし、「自分はバカです」と言っているようなものなので止めておいたほうがいい。
どのタイミングで必要か、どういうときには着けないでいいのか自分で考えてわからない。誰かに基準を作って欲しい。たぶんそういう人が一定数いるんだと思います。でも新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことがほとんどなわけです。
本心はこうなんだと思います。
「自分はマスクを外して走りたいけど、マスクを着用していないと暴言を吐かれることがあり、こわいから誰かがマスクなんて必要ないと言ってほしい」
反論はあると思います。議論をするつもりはありませんが、他力本願で自分は何もしたくない。好きにすればいいと思います。わたしの知ったことではないですし、もしかしたら誰かがそれをやってくれるかもしれません。でもその人だってポジショントークをしているだけかもしれません。
数ヶ月後にはまた違った説が出てきて、「あれは間違っていた」なんてことをメディアは平気で書きます。いや「間違っていた」なんて言わずに、真逆のことを書きます。その情報に振り回されて、ストレスを感じて疲れてしまう。そうやって歳を重ねていきたいかどうか。
繰り返しになりますが「自分で判断すればいい」それだけです。誰も正解なんてわかりませんから。誰かに迷惑がかかるのが嫌なら着用する。別に気にもならないのなら着用しない(気にする必要もない環境で走るのも含めて)。大人なんですから自分で決めてください。
まとめ
身も蓋もない話になりましたが、いい歳した大人が「誰かに決めてもらわないと判断できない」なんて恥ずかしいことを口にするものではありません。何が正しいかを判断できないなら判断できないなりに選択肢はありますし、それを選ぶのも判断のひとつ。
メディアを信じるのも権威を信じるのも自由です。でも本当に信じられるのかどうかを、疑う気持ちくらいは持ったほうがいいんじゃないかなとは思います。疑いすぎるとわたしのようにこじらした大人になるので、全面的にはおすすめしませんが。
少なくとも今の段階では「ランニングでのマスク着用についての必要性は自分で考える」というのが結論です。もちろんその行動に責任を持つということでもありますが。自分の行動に責任を持って、自分が正しいと思う道を進む。極々当たりませのことです。