自分に厳しく、他人に優しいランナーでありたい【速さよりも大切なもの】

一般ランナーにとってサブ3は大きな壁であり、それを超えていった人は褒め称えられ、場合によってはその人に対する信仰心みたいなものも生まれます。サブ3を達成するには、ストイックな練習とコントロールされた日常生活が必要で、才能だけでたどり着ける人はほとんどいないというのがその理由のひとつ。

努力を讃えているわけです。どんな練習をしてきたかはわかりませんが、生半可なものではないことは確かで、それに耐えてきたということの証明なので「素晴らしい」となるわけです。ただ、間違ってはいけないのが、速く走ることを褒め称えているのではないということ。

「サブ3」は確かに速いのですが、そこを評価している(評価されている)のではなく、そこに到達したことが素晴らしく、みんなが拍手してくれるわけです。ここを混同している人が多いような気がして、ランナーは速く走れるというだけで大きな顔をする人もいれば、それを聞いただけで崇めてしまう人もいます。

マラソンのタイムは努力の証ではあります。ただ絶対的な速さというのは、誰もが手に入れられるものではなく、ある部分は間違いなく才能に依存します。才能という表現はちょっと安易過ぎるので、別の表現をするなら「個性」ですね。速さはただの個性でしかありません。

背が高い人や低い人がいるように、足が速い人もいれば、足が遅い人もいます。ベースとなるペースがキロ4分の人はサブ3を目標としても現実味があります。一方でベースとなるペースがキロ6分の人は、血の滲むような努力をしなくては、サブ3には届きません。

では後者の方がランナーとして劣っているかというと、そうではありません。お互いオリンピック出場を目指すなら、速いほうが優れていると言えますが、一般のランナーでそういう人はいませんよね。優劣を測る物差しがトップランナーと一般のランナーでは違います。

それなのに私たちは、速いというだけで評価しがち。それしか評価基準がなく、親しい間柄でもない限り、自分以外のランナーがどれくらい努力しているか分からないので、仕方がないことなのですが。ただ、わからないなら「みんな等しく素晴らしい」でいいような気がします。

そこに優劣を付ける必要はなく、挑戦したという事実を讃え、完走したことを素敵だと褒めればいいんです。その人が自分よりも速いとか遅いとかは、一切気にする必要はありません。努力しているのを知っているなら、それも加えて褒め称えればいい。ランナーはみんな素敵なんです。

ただ、それは他の人を見るときの基準で、自分自身に当てはめないことです。マラソンは準備のスポーツですので、エントリーを決めたら、とにかくそこに向けての準備をしっかりとすること。あらゆる欲を無視して、走ることだけに集中して、完走のために生活の全てを捧げる。

すべての人がそうであるべきとは言いません。でも、せっかく取り組むなら、自分のすべてを賭けたほうが面白いですし、人生で走れるフルマラソンの回数は限られていますから、後悔しないようにベストを尽くすほうがいい。もちろん、私の基準なので従う必要はありません。

ただ「自分は速くないから」という理由で、努力の量をセーブするのは無しかな。やっても意味がないというような、諦めにも似た感覚は捨てて、自分のベストを尽くせばいい。マラソンにおいてライバルはいつだって自分自身であり、他のランナーではありませんから。

自分を超えていくために努力を積み重ねる。そして、他のランナーに対しては、走っているというだけで称賛する。自分に厳しく、他人に優しい。そういうランナーでありたいですよね。それは速く走ること以上に大切なことなんだと思っています。

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