ランニングウォッチが走りを支配する?大事なのは自分の感覚

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最近のランニングウォッチは単体で心拍数を測れたりします。それだけではなくスマホと連携して様々な情報をランニングウォッチで知ることが出来たりもするすぐれものです。

わたしは基本的に装飾品が苦手なので、普段がまったくランニングウォッチを付けていません。練習中に付けるのもスピード練習をするときぐらいでしょうか。

マラソン大会ではランニングウォッチを付けることも多いのですが、それは時間を見るためではなくGPSでログを取るためです。走り終えてからチェックのためだけにログをとっているのです。

それでも腕に付けているとどうしても目線がランニングウォッチを向いてしまいます。そしてスピードが思ったよりも出ていなかったら無理してスピードを上げてしまうのです。

苦しい時に頑張るのがマラソンの醍醐味のひとつではあるのですが、マラソンで速さ以外のものを求める場合、ランニングウォッチに従ってスピードを調整することになんの意味があるのかと最近ふと疑問に感じてしまいました。

ランニングを始めたころ、マラソンを走るモチベーションはタイムの短縮にありました。それが唯一正しいことだと思っていたからです。

でも…本当にそれが唯一なのか、マラソンはもっと幅広く楽しめるものではないだろうか。

速く走れなくなったことからの逃げだと言われればそれまでですが、速く走ることがそんなに素晴らしいことなのかというと、少なくとも自分の基準ではそうではありません。

ランナーの中には速ければ偉いのだと勘違いしている人もいますが、その時点で人として偉くないですよね。

身体との対話を無視してランニングウォッチに従って自己ベストを更新しても、それってどうなんだろうと思うのです。身体がきついと言ったところからさらに1段ギアを上げる精神力は確かに素晴らしいのですが、そういう走り方、そういう生き方って辛くないですか?

身体が嫌だと言って、きちんと折り合いを付けられないのならそれ以上の無理はしないことです。ランニングウォッチにどんな表示が出ていても、身体が行ってはダメだといえば行ってはいけないんです。

ただ心拍計に関しては身体との対話を上手にできない人にとっては対話のきっかけになるので上手く使えば役立つグッズですね。

そういう意味ではランニングウォッチもいまの自分の感覚と実際のスピードの確認という意味では役に立ちます。ランニングウォッチに走らされることなく、ランニングウォッチを使いこなせれば言うことはありません。

別にランニングウォッチに限ったことではないのですが、便利なものはどんどん使えばいいと思います。ランニングシューズもそうだし、ランニング以外のものだってそうです(我が家には炊飯器も洗濯機もありませんが)。

でも、便利さのせいで物事の本質を見失ったり、便利なものに支配されないように気をつける必要はあります。便利なものに支配された結果、不便になるなんて落語のネタにしかなりませんよ。

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