東京マラソンを走りながら感じたのは、「マラソンブームは本当に終わってしまったんだな」ということでした。
11.3倍という倍率があった東京マラソン2016でしたが、そこにはかつてあった「熱」はありません。東京マラソンがかつて持っていた「プレミアム」な感じが薄れています。
それが悪いということではありません。むしろ東京マラソンは特別ではなく、そこにあってあたり前のもの。10年かけて、ひとつの文化として定着しようとしているようにも感じます。
これだけの大都市のど真ん中の交通網を遮断して開催する東京マラソン。多少のクレームはあるのでしょうが、始まったばかりのような「絶対に無理」という人は少なく、影響を受けるお店も、うまく東京マラソンを活用しています。
工学院大学は何のメリットもないのに、スタート前の休憩場所としてキャンパスの一部を開放してくれています。工学院大学のボランティアスタッフは東京マラソンに浮かれることなく、会場でテキパキと動いています。
第一生命やその他のスポンサーは社員総出で沿道で、声援を送っています。多くのランナーがその声に支えられたことでしょう。
でも、間違いなく東京マラソンに物足りなさを感じます。自分の中に「誰もが熱狂していた東京マラソン」のイメージがあり、その熱が明らかに以前と比べて弱いものになっています。
その最大の理由は「石原慎太郎さんがいない」ということにあるのかもしれません。
賛否はあるものの東京マラソンは石原慎太郎さんの情熱によって開催され、魂を込めて運営に関わっていました。覚えている人もいると思いますが、石原慎太郎さんは自らエイドに立ち、給水の仕事をしていました。
本当は自分もランナーとして走りたかったのかもしれませんが、立場も体力もそれを許さない。ならば自らエイドに立ち、ランナーと直接触れ合うことで、自らを東京マラソンの一部にしていました。
舛添都知事も決して悪い人ではないと思いますが、彼は決して東京マラソンの熱源ではありません。むしろ優秀なビジネスマンとして、効果的に東京マラソンを活用している。そんなイメージがあります。
石原慎太郎さんの情熱は、ランナーへと受け継がれていきました。ただ、それが回数を重ねるごとに確実に薄れています。
マラソン大会の運営に情熱なんて必要ないと思うかもしれませんが、人が動くのは「心を動かされた」ときだけです。
そういう意味では、東京マラソンに当選した人が初めてフルマラソンを走る、というのは、ランナーの心が動くひとつの形。でもランナー人口が増えない以上、東京マラソンで初フルマラソンという人は減りつつあります。
ランナー個人個人をみたときには、まだそれぞれに熱があります。想いを持って走っている人がいます。ただ、その熱の総和が減ってきたように、わたしは感じました。
すべてのランナーが東京マラソンに浮かれていた時代はすでに過去のものです。もちろんそれでも東京マラソンは特別ですし、他の大会にはないプレミアム感があります。ただ、それが確実に薄れています。
いま、東京マラソンの熱源は台湾人ランナーによってもたらされています。
公表されていませんが、おそらく数千人規模の台湾人枠が東京マラソンには用意されています。そして彼らはわたしたちは東京マラソンを始めたころのような熱い気持ちを持って東京マラソンを駆け抜けています。
そういった僅かに残る熱狂が消えてしまったとき、東京マラソンはいったいどのような形で続いていくのか気になります。
東京マラソンの運営側が冷静に「そろそろ申し込み倍率が下がる」ことを想定し始めていることを、大会の端々に感じることができました。きっと東京マラソンは次の一手を打ってくることになるでしょう。
東京マラソンの今後の鍵を握るのは「東京オリンピック」。オリンピックという熱狂が東京マラソンをもう一度、熱いものへと戻していくのか、オリンピックの終焉ともに東京マラソンが沈んでいくのか。
熱狂なき東京マラソンはこれからどこに向かっていくのでしょう。
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